菅原安兵衛 Who? その2

 昨年4月に書いた記事雑感 2021年4月22日 母方の先祖のこと 菅原安兵衛 who? - 晩鶯余録 (hatenablog.com)の「菅原安兵衛」について補記

 宮城県立図書館にレファレンスを依頼した。詳しく紹介していただいたので、その結果も含めて書いてみる。

 

 江戸時代18世紀初めから明治10(1877)年頃まで、仙台の国分町に出版元が集中していて、これを「国分町十九軒」と呼んだ。中でも最大のものが裳華房伊勢屋半右衛門(伊勢半)である。ここから出版された本が山形県内陸部にも多く入ってきている(庄内では京都からの本が多いようだ)。伊勢半は明治11(1878)年に6代目が没して廃業したとの由。

 

 渡邊洋一著『仙台の出版文化』大崎八幡宮, 2010.1 pp.47-50「6.明治以降の仙台の出版」-「一,明治期の仙台の出版界」の項


 「藩政時代の仙台の出版は,仙台城国分町十九軒に軒を連ねた伊勢半以下の書肆の活動によって形作られていたといっても過言ではない。しかし,戊辰戦争の実質的な敗北によって心ならずも賊軍のレッテルを貼られた仙台を含む東北各地では,欧州列国に追いつき,追い越せの近代国家建設を目指した明治政府の富国強兵策においては,その最下層に位置する労働力と食糧の補給地としての意味合いが強い地域とされ,”白河以北一山百文”と陰口を叩かれるようになっていった。
 そうした中,仙台には東北鎮台(後の第二師団司令部)が置かれるなど一応東北の中核としての役割を担うようにはなったものの,住民の意識の中には中央に対する劣等感もあって経済・社会・文化のいずれの面においても遅れをとっていくようになる。(中略)こうした状況下において出版業は盛んになるはずはなく,藩政時代の仙台の出版界を担っていた伊勢半以下の書肆達は製版から活版へという印刷技術の近代化に対応できず相次いで姿を消していき,一人伊勢安のみが四代伊勢齋助の気概もあって静雲堂伊勢安書店として出版活動を続けていくことになる。しかし,この伊勢安にしても藩政時代から薬草を商い,薬種仲間として二足の草鞋をはいていた関係から薬草店(現伊勢安薬局)へ業態を変更し,ここに来て藩政時代の書肆は全て姿を消すことになる。」

 

 伊勢半と伊勢安の関係が良く分からないが、調べてみると昭和時代の伊勢安薬局でも出版をしていることが分かる。

タイトル 竹堂游記全書
著者 斎藤子徳 著
著者 木村敏, 飯川勤 校
出版地 仙台
出版社 伊勢安薬局
出版年月日等 昭和10

 

 静嘉堂菅原屋安兵衛国分町十九軒の一つであったが、渡邊洋一著『仙台の出版文化』大崎八幡宮, 2010.1によると、p.67「第6章【註】」の項に、

 

 「(2)藩政時代から教科書の発刊では定評があり明治初年に初等教育用の教科書の一つ『單語篇』の発刊等を行った菅原屋安兵衛義務教育の教科書の固定化もあって明治一〇年頃までに廃業。」という記載があるとのこと。

 

 また、菊田定郷著『仙台人名大辞書』続「仙台人名辞書」刊行会, 1981 p.566「スガワラ・ヤスベエ【菅原安兵衛】」の項に
 「書肆。仙臺國分町に書籍商を營み,菅安書店と稱す,明治初年專ら學校教科書を販賈し,大に諸官廳の信用ありしも故ありて廢業せり。」とあると。

 

 「故ありて」は「製版から活版へという印刷技術の近代化に対応できず」や「義務教育の教科書の固定化あって」のことだと思うが、「も」が気になる。

 

 さて山形市銅町の迎接寺に葬られている菅原安兵衛は、大正4年8月に63才で亡くなっているから、生年は1852年(嘉永5年)頃である。仙台の菅原屋安兵衛が廃業したという明治10年頃にはまだ25才くらいなので、店主としては微妙な年齢である。

 同名というだけで、廃業した後に菅原安兵衛がどのような人生を送ったかを妄想するならば、事業の衰勢と何らかの問題で廃業した彼は、商売替えしたか、出版関係の伝手で山形に移り、何らかの手伝いをしたかも知れない。しかしその痕跡は今のところさっぱり見つからないので、同姓同名でも全くの別人である可能性の方が高いだろう。

 

 山形の出版元としては、文政年間に玄樹堂黒木屋太右衛門天保年間に十日町御用書物所崑崙堂北條忠兵衛などがあげられる。八文字屋五十嵐太右衛門は元禄2年の創業で、二代目が紅花商いの帰途、雑貨や京都八文字屋版の浮世草紙を買付けて持ち帰り、貸本業を行って繁昌した。明治になって(たぶん八代目〈明治27年没〉から)教科書本を始めとする出版事業を開始した。九代目はハイカラな人で、自転車・自動車を乗り回し、いち早く電話を取り付けるなどしたという。今は十二代目か。

 しかし、これらの本屋も八文字屋以外はなくなってしまい、仙台から流れてきた菅原安兵衛が身を寄せていたとしても、その記録など残っていないだろう。それに、どうやって彼が鋳物業に関係し、家族もいないで老人となり、一人だけ別の家の墓に入ったのか、全く謎である。明治3年の銅町絵図には菅原姓の家は一軒も無い。