雑感 2021年4月22日 母方の先祖のこと 菅原安兵衛 who?

 このところ、母方の本家の先祖調べに進展があってバタバタしている。

 

 一つは明治3年の「銅町繪圖」に先祖の名前が見当たらなかったことについて。もう一つは亡くなった義理の従兄弟がまとめておいてくれた戒名の資料に、重複、誤解があったことである。

 

 前者については、繪圖の現所有者が書き込んだ、後世(昭和)に切られた道の位置が間違っていて本家の場所が分からなくなっていたのを、昭和30年代の住宅地図と照らし合わせて確認できた。ただ、繪圖のその場所には「長谷川甚六」と書いてあるのだ。先祖は「長兵衛」である。しかし他の資料からして確実にその場所なので、「甚六」即ち「長兵衛」と考える他ない。

 

 「長谷川甚六」は伝承では斯波兼頼以来の山形鋳物師とされているから、これは長兵衛がその子孫であることを意味しているのだろうか。思いがけない進展である。今、郷土史家の方に調べていただいている。ただ過去帳などに甚六の名は無い。

 

 後者については、「平次郎」という先祖を、過去帳の没年だけで三代目の子と誤解してしまったことである。戸籍にあたると、この「平郎」は18歳で亡くなった「平郎」であることが分かる。つまり、三代目の子ではなく四代目の子である。

 四代目は小野田家から養子に入った人で「平治郎」といい、「長兵衛」に改名した。そして三男に自分の名前を付けた。この子が若くして四代目より先に亡くなったので混乱していたのだ。

 代の数え方については、「文化年中創業」という記述からの推定である。この記述が何に拠るのかは不明である。南北朝の長谷川甚六に列なるならば、600年くらいは経つことになるが…。

 

 ついでに、過去帳には「菅原安兵衛」という人がいて、大正4年8月に63歳で亡くなっている。戒名は「曙屋安養信士」。「曙屋」とは変わった戒名だ。戸籍には見当たらないので親戚でもないのだろう。どういう関係で長谷川家の墓に入っているのか、何者なのか全く不明である。ネットで検索してみると、仙台市国分町に有った版元で菅原安兵衛という人がヒットした。しかしこれが同一人物なのか、偶然の一致で別人なのかは分からない。

(後日補記)

 このことについて宮城県立図書館にレファレンスを依頼したところ、詳しく資料を紹介していただいたので、下記の記事にまとめました。ご参照ください。

菅原安兵衛 Who? その2 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)