森戸辰男の書 その2

 県立図書館で「山形中央高等学校創立20周年記念誌」を読んだ。

 昭和41(1966)年10月15日に行われた創立式典に来賓として参列した森戸は記念講演を行った。題目は「青年学徒に期待する」。その書き起こしが記念誌に掲載されている。今、その小見出しを列記してみる。この小見出しは編集者が付けたものだろうが、内容を良く表している。

  本校を視察した頃のこと

  私の時代の思い出

  大きく変わった諸君の時代

  すばらしい日本の再建

  不安と危機の背後にあるもの

  人間形成の空白と混乱

  けわしい内外の情勢

  方向感をもってほしい

  正しい職業観を確立する

  民主的な人間となる

  立派でたくましい日本人をめざして

 

 本校を視察した頃とは創立直後の昭和22(1947)年12月2日のことである。自身の考えで、日本中に定時制通信制高校を設け、教育の機会均等を図ろうとした、その実践例として視察に来たのである。もちろん初代校長雨谷憲作の強い招請もあった。雨谷憲作は仁川商業高校校長だったが、終戦によって引揚げてきていた。

 山形中央高校は、昭和21年創立当初「山形公民中学校」と言い、山形四小と校舎を共用した。22年4月に「公民中学」を廃し「山形市立山形産業高等学校」を設置。校舎は山形一中と共用した。校長は2代高橋類治になっていた。森戸の視察はこの年の暮れであり、翌年4月には定時制の新制高等学校として県に移管されるのである。

 三等車に乗って来た森戸文部大臣は、(すし詰めのため)窓から降車したという。

 その時にも揮毫しており、その扁額は今も校長室に掲げられているというが、撮影する機会が無いので「創立二十周年記念誌」から写真を転載する。

 

f:id:hibino-bonpei:20220315175010j:plain

         落款は読み取りにくいが、「森」は草書体で書かれている。

 

  「郁々乎文哉」

  「郁々乎(いくいくこ)として文(ぶん)なるかな」

 『論語』「八佾」 (子曰、「周監二代、郁郁乎文哉、吾従周。」)による。

  子曰く、「周は二代に鑑(かんが)む。郁郁乎(いくいくこ)として文(ぶん)なる哉(かな)。

     吾は周に従はん。」 … 二代とは夏・殷王朝のこと。

 

 森戸が20年後に再訪した学校は、かつての粗末な姿からは想像できないほどの変貌を遂げていた。森戸は講演の中で、自分が子供の頃の苦学した時代と現在の時代を比べる。自分の子供時代は二つの大きな戦争、それも大国を相手にして必死に戦い、勝った。そうして世界に認められた。しかし、今の時代は一つの大戦争に負け、世界的な地位を失った。しかし、日本は奇跡的な復興を遂げた。

 また自分が「期待される人間像」を答申した事にも触れ、戦後日本のめざましい復興の中で、大切な「人間形成」ができていなかったことを指摘し、戦争による人倫の荒廃が最も大きな損害であったと言う。

 その結果、①暴力の横行と性の放縦、②基督教的民主主義と唯物的左翼思想、そして日本思想の三つ巴の思想が、③マスコミ文化によって(生活と思想の混乱が)生のまま諸君の心にぶつけられる。

 大衆社会化して能力よりも学力偏重となり、職業観も金のためばかりで職業使命感がない。陸軍教育総監だった人物の言として「幼年学校、士官学校、陸軍大学の学力優等者が、その後陸軍内でどのようであったか。ほとんど相関していない。」とする。

 戦後、国連の下で一つの世界になるかと思われたが、二つの世界に分かれてしまった。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」ばかりもいられない。中共文化大革命と称して、異常な既成文化の破壊を行っている。

 自由と権利の主張の裏で、公共(共同社会)を軽んじる人間の本能と衝動と慾念が表面化している。

 戦後の厳しい反省の中で、日本は全て悪いような考えになっている人も居ようが、良いところもある。アジアで日本ほど民主的であり文化的な国はあるまい。それは世界も認めている。

 

 これらの55年前の指摘は、現在から見ても実に正しいと思われる。

 

 山形中央高校は霞城内の旧兵舎に移ったが、旧陸軍射的場跡に校地を買い、昭和32年に新校舎に移転した。この校舎は昭和60年まであったので、自分も覚えている。

 その後、鉄砲町一貫清水の県農業試験場跡に新校舎を建築し移転して現在に至っている。その時から体育科を設置して、野球部の甲子園出場やスピードスケートのオリンピック選手輩出など活躍している。