昨日県立図書館で「山形市史資料第67号」を借りて読んだ。漆山村取締名主半沢久次郎の御用留書、明治2~4年分である。昭和59年(1984)年、伊豆田忠悦先生が翻刻し、解説されたもの。校長御退職後のお仕事だろう。
この解説中にある、昭和5年4月発行、高橋俊一著「物語出羽村郷土史」が半沢久次郎の自家出版であり、必見の資料だが今のところ禁帯出なので閲覧できない。(その後閲覧した)
半沢久次郎の代替わりについて、明治天皇巡幸の際の上申書に、「亡祖父久次郎、亡父久次郎と三代の宿願」として「この機の至るのを待ち上げた」とあるというので、初代・二代は明治維新後~明治14年の間に亡くなったと考えられる。
(後日追記 明治14年9月29日、明治天皇巡幸の際、半沢家が天童・山形間の小休止場所となったが、五代目が8月19日に山形市七日町菊地新學宅で急死。息子兄弟三人が急遽支度を整えて天皇をお迎えしたという。葬儀は8月23日に執り行ったようだ)
「物語出羽村郷土史」では二代目は初代の子とあるそうだが、二代目(為親)の墓碑銘では「考弥宗二、母矢萩氏」とあるという。(考は亡父の意)
(後日追記 二丘は「二祖」とあるので二代目であるが、弟の弥惣治が三代目を継ぎ、その長男亀治が四代目で、二丘の娘と結婚したという。つまりいとこ婚である)
弥宗二は画家で俳号もあるようなので、二丘同様、よほどの教養人だったのだろう。(この部分は考証があいまいである)
また「御用留書」には、明治2年11月に半沢久三郎が「取締見習・帯刀御免被仰付」とあり、三年間に渡って名前が出てくる(時には見習単独で文書が作られている)ので、おそらくこの人物が六代目となったと思われる。とすると、年齢から推して大正時代にはさらに代替わりしていると思われる。
下図は、その後、先輩諸氏からいただいた資料等を加え、書き直したものです。
初代九郎右衛門
文化文政期~弘化嘉永頃?
二代久次郎(二丘)1770生
↓ 三代 弥宗二(弥惣治)
↓ 四代亀治
↓ 1839 高野山への妻子の納骨を兼ね、長崎に旅行「旅日記」
↓ 天保~嘉永~明治初
↓ 五代久次郎 為親 1843名主(これ以前の漆山村名主は片桐善左衛門)
1849? ↓
↓ 明治維新 ↓ 1851生?
↓ 県庁より篤行表彰1870 ↓ (1869~名主見習久三郎)
↓ 曳尾堂文庫1873? ↓
↓ 三条実美来駕1876 ↓
↓ 六代久次郎(久三郎か?)
↓ ↓
? 歿 1881明治天皇巡幸 ↓(父親が天皇御来駕一月前に急逝)
↓ ↓ 1884「山形県史」忠孝節義の士に挙げる
↓ ↓ 1889初代漆山村長
↓ 1898生? ↓
大正・昭和 ↓ ↓ 1900には家督を譲り隠居している
七代久次郎 ↓ ?
↓ (亀吉、県会議員) ↓
↓ ↓
↓ 昭和、戦中、戦後(1947~50年農地改革)
↓ 八代久次郎
↓ ↓1930「明治大帝御巡輦五十周年記念碑」建立
↓ ↓ 同年『物語出羽村郷土史』刊行
? ↓
↓ 1950頃? 東京移住
以上の記事は情報が不正確な段階のものです。
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