旧出羽村と半沢久次郎

 昨日、市立図書館が一部再開したので借りに行った。外からビニテで立ち位置が区切ってある。入り口でカードをチェック。バーコードの読み取り。やっているのは中央公民館にいたNS君だった。日射しの中歩いたので汗が出る。マスクしているのでなおさら暑い。椅子は全撤去。休めない。入館時間は30分以内、とアナウンスが流れる。リストアップしたメモを渡して書庫から4冊探してきてもらう。カウンターはビニール越し。県立だと帯出できない本が借りられた。

 

 その本とネットで読み得た資料から調べたことを書いてみる。

 

 羽村の歴史を読む。出羽村明治22年の町村制実施で、漆山千手堂七浦の三村が合併したもの。この村の中心的な人物に半沢久次郎という人がいて、資料の中にしばしば登場する。しかし江戸時代末から昭和初めまで出てくるので、どうしても代替わり襲名があるに違いない。ただ、それがいつかは分からない。

 江戸時代から明治の人を初代と考えると、この人は漆山の名主で「二丘」という俳号を持ち、文化2年(1830)自宅に芭蕉句碑を建て、嘉永6年(1853)には山寺に蝉塚句碑を建立した人である。

 明治6年(1873)頃に福島県伊達市熊坂氏から蔵書を受け継ぎ、半沢文庫(曳尾堂)として公開した。一万冊を越える蔵書を、読みたい人には無料で見せ、何日も泊め、食事・風呂も提供したという。同じ頃、那須義八とともに尽力し、漆山に小学校を設け、近在11ヶ村から通学させた。

 明治12年(1879)の資料によれば、東根を除く村山盆地内で、米・大豆を含め800俵以上の土地所有者51人の筆頭が半沢久次郎で、立附米高は4,095俵とある。当時の「1反当たり3俵」という平均収量から換算すれば、1,365反(すなわち136、5町=136、5㏊)の田を持っていたことになる。中山町岡の柏倉九左衛門が2,408俵とあるから、その1、7倍になる。柏倉氏は自分の土地だけ歩いて山形駅まで行けたと言われているから、この半沢氏の所有地の広さがうかがえる。柏倉家の4,000坪の屋敷が残って公開されているが、一方の半沢家は農地解放で不在地主としてすべてを失い、屋敷跡は今、LDビバレッヂの工場になっているが、この敷地も優に1町四方はあるから3,000坪は下るまい。

 昭和25年の後、半沢家は東京へ移住し、1万冊の蔵書も散佚してしまったという。屋敷は県の寮になり、さらに民間の所有地となった。

 〈追記〉

 半沢久次郎は明治12年の立附米4,915俵、大正13年の所有耕作地面積105町歩のようである(『山形県農地改革史』)。明治から大正に掛けて減少傾向が見られるようだ。

 

 明治14年(1881)9月29日昼過ぎ、明治天皇全国巡幸の途次、行列が天童から羽州街道を南下、半沢邸で小休止なされた。この時のため半沢家は玉座と一室を設けて接待した。これは移築され、現存しているという。北白川宮能久親王有栖川宮熾仁親王大隈重信大木喬任らが随行しており、出羽村の一大栄誉であった。

 明治22年(1889)、出羽村初代村長となる。(これが「二丘」と同一人物であれば、80歳は越えていると思われるので、すでに代替わりして二代目なのだろう)

 この後、半沢久次郎(おそらく二代目)は、昭和8年(1933)頃まで村会議員、農会会長、軍人分会長、経済更生委員会副会長などを務める。昭和8年には出羽村が「経済更生五箇年計画」を策定していて、経済更生委員会会長は大内清三郎であった。

 

 この大内清三郎は、3代目村長(期間不明)と8代目村長(1943ー1947)の二度、出羽村村長を務めている。特にこの地区は立谷川の氾濫、浸水にしばしば苦しめられていたことから、昭和16年(1941)には県費支弁河川とする要望(18年編入)。昭和22年(1947)には第92回帝国議会衆議院に「立谷川及び高瀬川改修工事國営施行の請願」を行っている。紹介議員は松浦東介。「旧出羽村村長大内清三郎 県議大内博 顕彰碑」があるようだが、その場所、現存の有無は未詳。なお大内博は県議大内孝一の父。清三郎は千手堂で、博は七浦であり、二人は本家・分家の関係である。