岩下壮一について

 岩下壮一について、『闇をてらす足おと 岩下壮一と神山復生病院物語』(重兼芳子1986)を読んだ。当代の碩学として将来を嘱望されながら、フランス人神父が建てたハンセン病患者の療養施設を6代目院長として引き継ぎ、その運営に心血を注いで、51歳で病没した岩下神父と病院の医師・看護婦そして患者たちの壮絶な物語。戦後、筆者の取材に答える一老患者の語りとして書かれている。

 内容は大分『一粒の麦  井深八重メモアール』(加藤寛)と重複し文章自体も酷似している。どちらも共通の資料による部分が大きいのだろう。

 井深八重は、22歳でハンセン病と診断され、神山復生病院に入院するが、3年後に誤診と判明。しかしその後も病院を去らず、レゼー神父の下、幾多の困窮・辛苦を乗り越え、看護婦長として生涯献身的に尽くし、ナイチンゲール記章を受けた。病院百周年の記念式前日、八重は92歳で亡くなる。式当日八重への授賞のための来賓であった高松宮妃殿下は、八重の棺にすがるようにして涙を流されたと。加藤の本はその八重の語りとして書かれている。

 

 自分はカトリックの教えに無知だが、人は信仰の下にこれほどの事が出来るのだという事実に圧倒される。

 covid19に重ねてしまうのだが、逃げ出したくなるような現場で、医療関係者の心を支えるものは何なのだろうか。人が人に向ける犠牲的精神はどこから来るのだろうか。自分はこの歳になってもよく分からないのだ。

 膿爛れた患者の体から限りなく出てくる蛆を、人間の尊厳に対する冒涜と感じ、怒りをもって取っては殺す井深婦長の心を想像するのは、今の自分には重すぎることだ。

 (ハンセン病といえば、樹木希林出演の映画「あん」を思い起こす。ドリアン助川の原作は、今、ラジオの「新日曜名作座」で西田敏行竹下景子によって朗読されている。樹木希林の演技も凄いが、この二人の朗読も素晴らしい。)

 

 51歳で院長を辞し同財団法人理事長に就任した岩下神父は、興亜院の依頼により北支宗教事情視察のため中国に出かけた。中国の天主教教会と日本(陸軍)の意思疎通のため日夜奔走した。その結果、岩下の報告書は 

「一 現地教会当局は原則的にわが国との協力の必要性を認めているが教会所在地が

   共産党勢力圏内に多いことを勘案し、協力関係は慎重に進めざるを得ない。

 二 カトリック系諸学校(小・中ならびに大学)で日本語を教える日本人教師の増大

   強化が求められており、政府関係当局の協力が必要であること。

 三 これまでしばしば起きた不祥事は通訳の不備によるところが大きく、これを避け

   るためにも中国人聖職者を選抜して日本語を学ばせるほか、日本見学あるいは留

   学を実現すること。

 以上の三点が指摘されていますが興亜院あてであるため国体寄りの無難な内容になっています。時代の制約と無縁というわけにはいきませんでした。」(『一粒の麦』)

 

 中国の旅程で体調不良となった岩下は、帰国後すぐに神山復生病院に直行する。そのまま病床に伏した神父は施設の人々、患者等が賛美歌を歌い祈る中、神に召される。3日後に東京で行われた葬儀には、貞明皇太后からの御下賜品があった。

 

 この辺から陸軍と岩下の関係も見えてくるだろうか。これ以外に皇室・バチカンとの関係も深いが、今のところ岩下は皇室への崇敬の念が深く、貞明皇太后から病院への御下賜が頻繁であったことくらいしか分からない(御用邸が近くにあって、患者たちが皇太后陛下の乗る列車の遙拝を許された時もある)。皇室の関わりがあるためか、戦時中も病院経営に対して軍の横やりはなかったという。山本信次郎を知らなければならない。

 

 

 堀三也について追記

 ○ 「さんや」と読む(母もそう言っていた)が、紳士録の並び順では「みつや」と

   読んでいるようだ。小説『海賊と呼ばれた男』の中でも「みつや」とされている

   ようだ。

 ○ 『阿片と大砲』に、堀三也は明治23年生まれとあるが、21年の誤りである。

 ○ 『阿片と大砲』によると、戦争末期、輸送船が逼迫すると、「月工作」として民

   間の小型船を徴用し、海を渡って命がけの輸送に当たらせた。定款上、昭通でな

   く日本各地に堀社長直轄の特任業務として堀事務所の名の下に開始。

   福井県戦時徴用船リストに「三国港、第6新保40522、昭和18年所有者

   鮎川敬太郎、22年所有者堀三也、26㌧、大正2年製造、汽」とあり、「月工作」

   に使った一例と見られる。この船は戦没していない。