七日町角 梅月堂

 七日町角は往時の繁華街中心地である。今は県庁が移転したこともあり、かつてのようではない。東へ上った旧映画館街への通りである旭銀座も賑わいを無くしている。
 この十字路の東北角が山形銀行で、西北角のカラオケ店は昔々警察署で、その後は大映の上演館だった。東南角がナナ・ビーンズだが、ここはかつては丸久というデパートで、大沼デパートとともに市民が買い物に行楽に集まった所である。その後松坂屋となり、今は半官半民のような形の複合施設になっている。
 西南角が梅月館であるが、ここは以前は梅月堂という洋菓子店だった。3階建てのビルで1階が菓子店舗、2階がレストランで3階はかつてホールだった。昭和11年、建築家山口文象の設計で建設されたものである。
 戦前から多くの文化人が訪れた店で、昭和11年10月15日の新築開店日には高杉早苗や霧立のぼるが招かれたとのこと。長谷川一夫も訪れているはず。包装紙は東郷青児のデザインだったと思う。
 
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 ここに文化人が寄るようになったきっかけは、伊達美徳氏のホームページで知ることが出来る。
 もともと梅月堂を経営していたのは佐久間氏で、茂登七が明治22年に当時の遊郭街小姓町で菓子製造業を始めた。その弟(五男)の茂七が20歳の時(明治26年)東京飯倉の風月堂に入って菓子作りの修行をしたらしい。その後24歳で菓子店紅谷本店の婿養子となって小川姓になる。そして神楽坂にあった分店を任される。当時の神楽坂は文化人が住み、紅谷にも出入りしたのである。
 茂七は明治41年に現在の梅月館の土地を購入している(5年後に兄茂登七名義に変更)。
 昭和元年に山形佐久間家の養子秀治がこの地に3階建ての洋館を建て、和洋菓子、喫茶の梅月堂七日町店を始めた。そして昭和11年、道路拡幅にともない現在のビルが建てられたのである。
 山口文象や映画スターとの関係には東京在の茂七の力があったのだろうと推察されている。
 
 同年に茂七は紅谷の店を息子に譲っているが、20年3月の空襲で灰燼に帰す。茂七は山形に疎開し、3月18日に他界。享年72歳。
 梅月堂は戦後占領軍に接収され将校の集会所になっていたという。
 戦後も繁華街の一等地で繁盛し続けたが、市内に新しい洋菓子専門店が続々と出てくる中、平成9年、梅月堂は倒産した(その後一時、市の南に店を出したがすぐにこれも無くなって、そこは今パスタの店になっている)。
 梅月堂の建物にはその後いくつかのテナントが入ったが長続きせず、2・3階は空きの状態が多い。
 
 自分の父は大正初めの生まれだが、小学校を出ると梅月堂に奉公して洋菓子職人になった。父のアルバムには今のビルになる前の店舗の写真もあったと思う。東京に修行に出たこともあるが、もしかしたら紅谷か風月堂にいたのかも知れない。今となっては聞くことも出来ないが。(その後、姉の話で「モンブラン」という店らしいことが分かる)
 2度の中国出征を挟んで、復員後再び梅月堂で菓子作りにいそしみ、戦後の景気の良いときはクリスマスから正月まで休み無く働いていた。自分は幼い頃工場に連れられていって、デコレーションケーキを作るのを見た記憶がある。スポンジの台に生クリームを絞って飾るのであるが、いろいろな口金を使って、鮮やかな手際で模様や花を作るのだった。菓子品評会で、リキュールボンボンで東京都知事賞を得ているから、そこそこの腕だったのだろう。梅月堂がスポンサーになった地元テレビ番組のCMに、バウムクーヘンやリーフパイを焼くところが出たこともある。
 
 父はずっと佐久間氏のもとで働いたことになる。氏は昭和16年には山形市パン業会をまとめる組織の中心になっており、市の菓子とパン業界のリーダーであったようだ。地元経営者の中でも活躍し、丸久デパートやグランドホテルの設立にも関わった。
 ただ、父の目からは、氏はオーナーではあるが菓子作りはせず、現場の職人からは遠い存在で、商品について意見を異にすることもあったようだが、戦前からの奉公人という感覚から、表だっては言えなかっただろう。オーナーが職人であれば、いずれ暖簾分けのようなこともあったのだろうが、一生使用人で終わった。この辺が、経営難になっていった遠因の一つだったのかも知れない。その後、戦後に養子となった方が「若旦那」であり、父とほぼ同じ世代である。となると養子が2代続いたことになる。その方の息子さんの時に倒産したのである。

 追記 
 秀治氏は昭和30年創立の山形県洋菓子協会初代会長。クリスマス近くになると東京から職人を招き、自他店を問わず技術指導の場を設け、業界のカリスマ的な存在であったと。(山形商工会議所『キラリ山形』の記事「『山形の菓子文化を支える』柴田原料(株)会長」による)
 昭和53年頃に大旦那(秀治氏80歳)と若旦那(名前失念)が相次いで亡くなり、当時27歳の茂雄氏が社長となった。茂雄氏は昭和62年当時、山形JC理事長である。(読売新聞記事「ビジネス群像」による)
 
 追記2
 「やまがた散歩6号」(1973年4月)に、佐久間秀治の「梅月堂今昔」という文章が掲載されている。それによれば、佐久間家は明治14年以前から旅篭町で旅館業を営んでいた(後藤又兵衛旅館の右隣)。後に茂登七のときに小姓町に移って菓子屋になった。これが明治22年ということだろう。佐久間屋の最中といえば名物で、妓楼の登楼客が1円の折箱で土産に買ってくれたという。
 秀治は明治30年寒河江洋品店吉野屋の二男として生れた。すぐ裏が醤油屋で、安孫子県知事の家だった。大正10年、24歳で佐久間家の婿養子となる。義父の弟(茂七)が東京の神楽坂で紅屋(紅が正しいと思うが、今は原文のまま)を経営していたので菓子職人として半年修業に出された。このとき秀治は安い手間で働く職人になるより、店を開いて身を立てたいと考えた。しかし養父は許してくれない。それで店裏の専念寺の住職と碁ばかり打っていたが、紅屋の叔父が来て説得してくれたので、養父も折れ、念願の梅月堂を新築した。これが大正14年、28歳のとき。それまで床屋(現「ヘアーサロン・みしま」だと思ったが「みしま」の方に依れば「芝崎」さんの店だろうとのこと。「みしま」は後藤又兵衛旅館の近くにあったという。「みしま」の店名は三島通庸による。彼に洋髪を勧められたのだという。)ほか2軒に貸していた持ち地に鉄筋コンクリ3階建ての洋風の建物を建てた。1階は菓子売り場に喫茶部を設けた(これは神楽坂紅谷が3階建てで2階が喫茶室であるのに倣ったのかも知れない)。本格的な洋菓子を売り出したのは初めてで、店員たちには前垂れとモンペ姿をやめさせ、そろいの白衣にした。開校間もない旧山高(現山形大学小白川キャンパス)生や家族連れがよく来て繁昌した。
 卸してくれ、支店を出させてくれという申し込みがあったが、一店販売で押し通した。支店を出さなかったのは秀治の主義だったからだと分かる。昭和11年に今の建物を建てた。以下引用。
 
 「20年30年経っても古くならない店、という注文をして、ドイツから帰ったばかりの山口文象(原文は
象になっているが間違い)氏に設計を頼んだ。この人は東大時代社会主義思想で学園を追われようとしたが、教授がその才能を惜んでドイツに勉強にやったということで、私の店が帰国第一号の代表作となった。三階建てだが、新しい商店建築に基いた設計で、店には邪魔な柱が一本もない。一階は菓子、二階は初めて洋食を加えた喫茶部、三階は宴会場とした。店に三万円かけ、全部で六万円だった。田地一反六十円のころだ。開店日には映画スターの高杉早苗小桜葉子、霧立のぼるらを招いて客にサービスさせたから、大盛況であった。」
 
 昭和27年、55歳で商工会議所副会頭、昭和31年11月丸久デパート開店。「丸久」は佐久間屋からとった。昭和48年、松坂屋と提携、丸久松坂屋となる。
 
 以下のウエブページを参考にしました。