徒然草序段の解釈について~「ものぐるほし」を中心にして

 徒然草』序段の解釈について
  「ものぐるほし」を中心にして

一、はじめに
 
 [つれづれなるままに 日暮らし 硯にむかひて 心にうつりゆく よしなしごとをそこはかとなく 書きつくれば あやしうこそ ものぐるほしけれ]
 
 徒然草序段は、日本人になじみの深い文章である。古典の教材としても必ず取り上げられ、随筆文学の全機構(動機の心境・対象・表現手法・結果の心境)をたった一文、五句であらわしていて、随筆文学の本質を道破している、などという評価をもって解説されている。
 だが、序段の解釈には諸説あって、授業するたびに悩ましい思いをさせられるのも事実であり、その解釈の差異は、主に「ものぐるほし」の語釈の違いによって生じているのである。

 
二、序段解釈にみられる差異
 
 まずいくつかの口語訳を並べてみよう。「ものぐるほし」「あやしうこそものぐるほしけれ」の解釈の差に注意していただきたい。
 
 これといってほかに用もないままに、朝から晩まで硯に向かいっぱなしで、次から次へ心に浮んでくる、書いてもしかたのないようなことを、ただなんとなく書き付けてゆくと、われながら妙に気違いじみたものができてゆくようである。(冨倉徳次郎・貴志正造「方丈記徒然草」鑑賞日本古典文学)
 
 …(ソノ書ケタモノハ)ほんとうにへんに、わけもわからぬものであるわ。(橘純一「正註つれづれ草通釈」)
 
 ばかげている。軽い自嘲をこめた表現。書き記している自分があきれかえるというような気分。筑摩書房国語 指導書)
 
 右のA~Cは、「ものぐるほし」を、執筆している作品についての謙遜の言葉とみているのである。
 序段が謙辞の意味を持つことについては、左に列記するが、他の古典作品の中に、この序段に近似する表現がいくつも指摘されている。これらはいずれも自分の作品への謙遜の辞として述べられているのは明らかである。
 
 ① つれづれなりし折に、よしなしごとにおぼえしこと、世の中にあらまほしきこと
    夕暮れはさながら夢になしはてて闇てふことのなからましかば
    和泉式部集)
 
 ② いとつれづれなる夕暮に、端にふして前なる前栽どもを、ただにみるよりはとて、物に書きつけたれば、いとあやしうこそ見ゆれ。さはれ、人やは見る。和泉式部集)
 
 ③ つれづれのままによしなし物語、昔今のこと、語り聞かせ給ひしをり(讃岐典侍日記)
 
 ④ つれづれにはべるままに、よしなしごとども、かきつくるなり。堤中納言物語
 
 ⑤ ただ心ひとつに、おのづから思ふ事を、たはぶれに書きつけたれば、物にたちまじり、人なみなみなるべき耳をも聞くべき物かはと思ひしに、はづかしきなんども見る人はし給ふなれば、いとあやしうぞあるや。枕草子跋文、傍線部については後述)
 
 これらを見る限り、徒然草の序段もまた謙辞であることは疑いないように思われる。しかし、大方の解釈はそれ以上の意味を汲み取っている。ただ一点、これらにはない「ものぐるほしけれ」の一語があるために、解釈を複雑にしているのである。他の解釈を見てみよう。
 
 所在なさにまかせて、終日、硯に向かって、心に浮んでは消えてゆくとりとめのないことを、気ままに書きつけていると、ふしぎに物狂おしくなる。(三木紀人「徒然草全訳注」講談社学術文庫
 
 しようにもすることのないのにまかせて、終日、机の上の硯に向かいながら、心中につぎつぎに移ってゆく、とりとめもない事を、何というあてもなく書きつけてみると、妙にわれながらばかばかしい気持ちがすることである。(安良岡康作「徒然草全注釈」)
 
 …それからそれと、何のあてどもなく書いてゐると、妙に感興が湧いてきて、たゞならぬ心になった(詳解)
 
 右のD~Fは、「ものぐるほし」を、執筆している作者兼好の心理状態に対してのものと解釈するのである。教科書指導書の多くはA~CとD~Fの解釈を併記したり、折衷する形で書かれているが、後者の解釈に拠っている場合がほとんどである。
 
 ものにつかれたように心がたかぶる。
  「ものぐるほし」の主語を書きあがった文章とみる説と、作者の心境と解する説の両説がある。第一学習社古典 指導書)
 
 我ながら妙にばかばかしい気持ちがすることである。
 気がへんになりそうだ、ばかげている、の意…この主語として、1筆者の心、2書くこと自体、3書かれた文章、4=1と2、などの諸説があるが、ここでは1と見た。
(右文書院古典 指導書)
 
 妙に狂おしい気分になることだよ。
  この部分の解釈としては、大別して二つの立場がある。1主語を「書いたもの」とする説。意味は、このような妙な文章ができた、という意で謙遜する気持ちを表わしたもの。2主語を「自分の心」とする説。意味は、妙に感興がわいてきて、自分でも抑えられないような、興奮した気分になる、という意。謙遜の気持ちは一応あるが、それ以上に、書くことへの楽しさに心が高ぶるという気持ちを述べたもの。ここでは2の意に解しておく。尚学図書国語一指導書)
 
 不思議なほどただ事でないような感興を覚える。
  解釈では軽重二義が考えられ、狂気である。狂人じみているという重い意味(本来の意味)と、ばかばかしい、はしたないという軽い意味が示されている。また、卑下・謙遜とする説と、感興・興奮をいったものとする説とがある。「何が」ということに関しても「私の心が」、「書き上げられた作品が」の二説あるが、文脈表現から前者と考えるのが現在の傾向である。(教育出版国語指導書)
 
 これらの差異は、Jに要約されているように、「ものぐるほし」を謙遜・卑下の言葉ととるか、自身の心境、心理状態について感興・興奮を言ったものととるかの違いであり、それに付随して、「ものぐるほし」の形容する対象が何かについても、書かれた作品・執筆態度・作者の心情にわかれる。それらの点について、各者さまざまな論を展開しているのである。
 高校の授業では、指導書に従って、D以下のような解釈が主流なのではないかと思われる。しかし、筆者は今、A~Cの解釈に与して述べてみたいと思う。その理由は要するに次のようなものである。
 
 多くの用例からみた「ものぐるほし」の語感は、現代語の「くるおしい」とは大分違っている。
 またD以下のような解釈は、自己分析的であり、行為者と認識主体が同一であるのに心理的には分裂している、あるいは二重構造になっているということになる。これは近代的な自我の意識に近いように思われるのであり、中世の作品に当てはめるには無理があるのではないか。確かに、後で触れるように、「源氏物語」や「枕草子」の中にも、そのような自己分析的心理描写に使われた「ものぐるほし」らしきものが存在するが、全体から見れば希な用例であり、その場合も「ものぐるほし」とされる対象、具体的心理状況が明記されているのであって、徒然草序段のこの「ものぐるほし」のような場合には不適と思われる。
 
 
三、「ものぐるほし」の用例にみる語感
 
 索引を見ると徒然草には一例しか出てこないこの語を、どのように解釈するべきか。文字通り「物狂ひ」からきた「気違いじみている」としてよいのだろうか。
 一例しかないなら他の作品の用例を参照すればよい。そこで、平安から鎌倉にかけての作品にあたってみた。
 
 『蜻蛉日記』(十世紀末)六例(ものぐるほしき・ものぐるほしけば、を含む)は、いずれも夫兼家や宮の行為への、「度はずれである」「常識外れである」、自分の行為を他人の目からみたらとんでもないという意味であり、文字通り「気違いじみている」の意味での用例はないようである。
 
 『枕草子』(十世紀末)八例の中では、「職の御曹司におはしますころ」七十九段の例が「物狂ひ」に近い意味になるだろうか。古語辞典用例によく引かれる箇所である。
 
 [朔日などぞいふべかりけると下には思へど、さはれ、さまでなくとも、言ひ初めてむことはとて、かたうあらがひつ。二十日のほどに雨降れど消ゆべきやうもなし。少したけぞ劣りもて行く。「白山の観音、これ消えさせたまふな」と祈るも物狂ほし。]
 
 雪がいつまで残っているか賭けた作者が、誰よりも長く残ると言ったとおりになるよう、なりふりかまわず祈るという場面である。「気違いじみている」と訳してもよさそうだが、また同段で
 
 [里にても、まづ明くすなはち、これを大事にして見せにやる。十日のほどには、 「五日待つばかりはあり」といへば、うれしくおぼゆ。また、晝も夜もやるに、十四日の夜さり、雨いみじう降れば、これにぞ消えぬらむと、いみじう、今ひと日二日も待ちつけでと、夜も起き居ていひなげけば、聞く人も物狂ほしと笑ふ。]
 
 とあるように、この「ものぐるほし」は、決して作者の気が触れたと言っているわけではなく、笑いながら「ばかだなあ」と言うくらいの感じである。他の例をみても、
 
僧都の御乳母のままなど」二百九十六段で、
 
 [「いかでか、片目も開き仕うまつらでは」と言へば、「人にも見せよ。ただ今召せば、とみにて上へ参るぞ。さばかりめでたきもの得ては、何をか思ふ」とて、みな笑ひ惑ひてのぼりぬれば、「人や見せつらむ。里に行きて、いかに腹立たむ」など、御前に参りままの啓すれば、また笑ひ騒ぐ。御前にも、「など、かく物狂ほしからむ」と、笑はせたまふ。]
 
 女房達のいたずらについての中宮様の評言で、「とんでもない悪戯だこと、冗談が過ぎます」ということだが、しかし深刻にそう思っているのではなく、お笑いになる程度のものなのである。
 ただ、文字通りの狂気を意味するのではないにしても、異常な心理を表わしていると考えられる例はある。この辺の語感が、前記D以下の解釈の根拠になりそうである。
 
「いみじう暑きころ」二百九段の、
 
 [いみじう暑きころ、夕涼みといふほど、もののさまなどもおぼめかしきに、男車のさき追ふは、いふべきにもあらず、ただの人も、しりの簾あげて、二人も一人も乗りて、走らせて行くこそ、涼しげなれ。まして琵琶掻い調べ、笛の音など聞こえたるは、過ぎて往ぬるもくちをし。さやうなるに、牛の鞦(しりがい)の香の、なほ、あやしうかぎ知らぬものなれど、をかしきこそ、物狂ほしけれ。]
 
 排泄物で汚れた緒の匂いにひかれるのは自分でも異常な心理であろう。しかしこれも、深刻に自分のことを異常ではないかと心配しているわけではない。
 
 このように、「ものぐるほし」は「ものぐるひ」から派生したものであるには違いないだろうが、文字通り「気違いじみている」と訳するのは躊躇される。三省堂例解古語辞典には、「気違いじみていると解釈するのは、動詞『くるふ』の意味と直結して考えるための誤りで、実際の用法に合わない。」とある。
 
 しかし、『平家物語』(十三世紀前半)になると、索引では三例あるが、いずれも「気違い沙汰」「気違いじみている」の意である。信じがたく常軌を逸したふるまいであり、非難さるべき行為であるという使い方である。ここにはもう笑う余裕はない。
 
 『今昔物語』には「ものぐるはし」の用例が十五例あるが、例えば第十二、多武峰増賀聖人語第三十三、増賀聖人が、比叡山を下ろしてもらうために佯狂している時に、冷泉院の召しに応じて参上し、
 
 [様々ノ物狂ハシキ事共ヲ申シテ逃テ去リニケリ]
 
 これは文字通り「気違いじみた」の意味である。
 
 一二四〇年頃の『うたたね』にある一例は、大雨に濡れながら尼寺を目指す作者の姿についてであり、その異様さを表現している。
 
 [待ちとる所にも、あやしく物狂ほしきもののさまかなと、見驚く人多かるらめなれども、桂の里人の情に劣らめやは。]
 
 これらをみると、「ものぐるほし」の語感には、笑いを伴う「ばかばかしい」と、文字通りの「気違い沙汰だ」との二通りがあるように思える。『徒然草全注釈』(安良岡康作)には次のようにある。

 [「ものぐるほし」は、橘純一・慶野正次両氏の『詳説徒然草の語釈と文法』には、軽重の二義ありとし、本来の重い意味では、狂気である、狂人じみている、軽い意味では、われながらばかばかしい、はしたないと解している。わたくしも、気ちがいじみているとする、これまでの解釈では極端すぎるように思っていたので、この説によることにした。この軽い意味の用例として、同書には、『枕草子』の雪山の段から、「白山の観音、これ消させ給ふな、と祈るも、ものぐるほし」を引用している。この段を読んでここに至ると、制作境にわれ知らず没頭してしまった兼好が、ふとわれに帰って、自己の作品の上に反省を感じている調子が出ているようである。「こそ」と強めた所に、それが認められる。]
 
 
四、「ものぐるほし」の語意の分類 1
 
 今仮に、「ものぐるほし」の語意を四つに分けてみる。
 
常識外れである。ルール無視の乱痴気騒ぎである。
  (この意味は、「あやし」「みだりがはし」「うつつなし」「をこ」等、他の語でも表現できそうに感じられる)
 
異様である。気違い沙汰である。
 
(我ながら)異常な心理である。狂ったようである。
 
容易には叶わぬ思い(欲望)がつのってどうしようもなく抑え難く、気も狂わんばかりになる。=現代語の「狂おしい」
 
 ①・②は本人自身の心情として言うのではなく(属性形容詞的に)他者の行為、様子について否定的に言うものである。他者から見て、非常識と感じるような、異様と感じるような、びっくりするような、眉をしかめるような感じを言うようだ。(その常識のレベルは人によって違ったりもする)この時、そう評されている人自身は夢中であって、「ものぐるほし」の自覚は無いと考えられる。
 
 『源氏物語』「夕顔」の次の例がこれにあたる。
 
 [返り入りて探り給へば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶしふしたり。「こはなぞ、あなもの狂ほしのものおぢや。荒れたる所は狐などやうのものの人をおびやかさんとてけおそろしう思はするならん。]
 
 異常なまでの怖がりだなあという、他者に対しての評言である。
 
 また、『枕草子』「なほめでたきこと」百三十一段の、
 
 [うれしがりて、宮の御前にも「なほ、それ舞はせさせたまへと申させたまへ」など集りて啓し惑ひしかば、その度還りて舞ひしは、いみじううれしかりしものかな。さしもあらざらむと、うちたゆみたる舞人、御前に召すと聞えたるに、物にあたるばかり騒ぐも、いとどもの狂ほし。下にある人々の惑ひのぼるさまこそ。人の従者、殿上人などの見るも知らず、裳を頭にうちかづきてのぼるを笑ふもをかし。]
 
 などもまさに他者の行動に対してであり、言われている本人達は、言う者の目を意識する余裕もなく、無我夢中の大騒ぎ。これが「ものぐるほし」の基本的な意味であろう。
 
 これを行為者本人が後で振り返ってみれば、「気違い沙汰だったな」という反省になる。この例として、『源氏物語』「賢木」の用例をあげてみると、
 
 [かの四の君をも、なほかれがれにうち通ひつつ、めざましうもてなされたれば、心とけたる御婿のうちにも入れ給はず。思ひ知れとにや、このたびの司召にも漏れぬれど、いとしも思ひ入れず、大将殿(源氏)かうしづかにておはするに、世ははかなきものと見えぬるを、ましてことはり」とおぼしなして、常にまゐり通ひ給ひつつ学問をも遊びをも、もろともにし給ふ。いにしへもものぐるほしきまで、いどみきこえ給ひしをおぼし出でて、かたみにいまもはかなきことにつけつつ、さすがにいどみ給へり。]
 
 直接過去「き」の使用から自己反省と考えてよい。明らかに同時でなく、過去への評言である。
 
 しかし、この反省が即時に行なわれ、ほとんど行為と同時と考えられる場合が多い。その場合、語意は③に近づいてゆく。
 例えば、『枕草子』「ねたきもの」八十五段で、
 
 [南の院におはします頃、「とみの御物なり。誰も誰も、時かはさず、あまたして縫ひて参らせよ」とて、たまはせたるに、南面に集り居て、御衣の片身づつ、誰かとく縫ふと、近くも向かはず縫ふさまも、いと物狂ほし。]
 
 とあるのは、作者自身を含めた女房一同の行為に対してである。ふと他の女房たちを見ると無我夢中で縫っているが、自身もまたそうしていたはずではないか。もし自分一人だったら気づかないものを(あるいは我に返った後でそう思っただろうことに)、人のふりを見ることで反照的に気づいたのである。
 また、前述の「いみじう暑きころ」の[さやうなるに、牛の鞦の香のなほ、あやしうかぎ知らぬものなれど、をかしきこそ、物狂ほしけれ。」は、明らかに同時に自覚しているように思われる。
 
 ここに至って、自己の行為(外部表出)にではなく自己の内面感情、心理状態に対する形容になっている以上、すでに「ものぐるほし」は感情形容詞的に使われているとみてよいだろう。①・②に比較して、形容詞としての性格が変化しているのである。
 ④は、人間のより複雑な内面を描写するものだろうが、その用例は必ずしも多くはない。特に物語においては、「ものぐるほし」と認識する主体が語り手(地の文)なのか登場人物本人(心中語)なのかが分明でない場合がある。
 
 例えば「若菜・下」、
 
 [身づからも、おとどを見たてまつるに、けおそろしくまばゆく、「かかる心はあるべきものか、なのめならむにてだに、けしからず『人に点つかるべきふるまひはせじ』と思ふものを、ましておほけなき事」と思ひわびては、「かのありし猫をだに得てしかな、思ふ事語らふべくはあらねど、かたはらさびしき慰めにもなつけむ」と思ふに、もの狂ほしく、「いかでかは盗み出でむ」と、それさへぞかたき事なりける。]
 
 などは、作者による描写なのか登場人物の自己観照なのか不明である(文脈が不分明なのは、あるいは「ものぐるほしく、いかでかは盗み出むと、思ふに」のような省略があり、「ものぐるほしく」はその省略部分にかかっているからかもしれない)。
 
 また「手習」の用例、
 
 [「うち見るごとに涙のとめがたき心ちするを、まいて心かけ給はむおとこは、いかに見たてまつり給はん」と思ひて、さるべきをりにや有りけむ、障子の掛け金のもとにあきたる穴を教へて、紛るべき木丁など押しやりたり。「いとかくは思はずこそ有りしか、いみじく思ふさまなりける人を」と、我がしたらむあやまちのやうに、をしくくやしうかなしければ、つつみもあへず、物ぐるはしきまでけはひも聞こえぬべければ、退きぬ。]
 
 これも登場人物の心理か作者の描写か不分明。(「ものぐるはしきまで」は「聞こえ」にかかるのか。「ものぐるほしきまでのけはひ」なのか、あるいは「ものぐるほしきまで身じろげば」など省略されているのか、わかりづらい。)
 これらの用例は、自己(同時)反省と見た場合には、④の意味、つまり現代語の「狂おしい」に近い意味になる。
 
 「野分」には、③と見られる用例がある。
 
 [空のけしきもすごきに、あやしくあくがれたる心ちして、「何事ぞや、またわが心に思ひ加はれるよ」と思ひ出づれば、「いと似げなき事なりけり、あなものぐるほし」ととさまかうざまに思ひつつ東の御方にまづまうでたまへれば、おぢ極じておはしけるに、とかく聞こえ慰めて、人召して所々つくろはすべきよしなど言ひおきて南のおとどにまゐり給へれば、まだ御格子もまゐらず。]
 
 これは自分自身に対して言ったものである。これは「狂おしい=アア気ガ狂イソウダ」と訳せそうであるが、単に「馬鹿ゲタコトヲ」と訳してもよさそうである。いずれにせよ内省的であり、自己分析的である(直前の「る」「けり」は、「ものぐるほし」が現在形であるから、継続、詠嘆なのであろう。)
 
 
五、「ものぐるほし」の語意の分類 2
 
 前章で「ものぐるほし」の語意を四つに分け、用例をあげて説明したそれを踏まえて、『徒然草』序段の「ものぐるほし」に対する、「気違いじみた気分である」「妙に感興が湧いてきて、ただならぬ心になった」などの解釈が妥当なものかどうか考えてみたい。
 
         自己対象      他者対象
 同時的   Ⅰ 二重の意識    Ⅱ 客観視
        (自己観照
 回想的   Ⅲ 自己客観視    Ⅳ 客観視
        (随筆的態度)
 
 右の表のように分類しなおしてみると、「気違いじみた気分である」「妙に感興が湧いてきて、ただならぬ心になった」などの解釈はⅠの部分にあたり、現代語の「狂おしい」に近い意味とも考えられるようである。
 
 「ものぐるほし」の語感の幅を、前述のように、軽重の差とする考えもあるが、筆者としては、対象の自他、及び客観的感想か自己観照かの差として考えてみた。
 筆者は初め、他者を対象にした場合には、同時の感想でありえるが、対象が自分自身である場合は、事後の反省とするほかないと考えていた。つまりⅠの欄は空欄になるだろうと思っていた。「ものぐるほし」の語源を「ものぐるひ」や「くるふ」に求めるとして、狂気に陥っている人間が、その状態の中で、自分自身を「気違いじみている」と自覚することはないだろう。自覚がないからこそ狂気なのではないか。ただ狂乱状態の去った後での自己反省としてならありえると考えたのである。(その意味で、序段の「ものぐるほし」を「われに帰っての反省」とする説に同調した。そして、自己の行為をも一歩離れて客観的に見つめようとする態度にこそ『徒然草』の随筆的本質があると考えていた)
 
 言い換えれば、「ものぐるほし」は、「異常だなあ」と客観的にあるいは自己分析的に言う言葉(属性形容詞)であり、「気が変になりそうだ」という自分の心情を言うもの(感情形容詞)ではないのではないか。その意味の現代語「狂おしい」は、逆に、その人自身の心情であり、他から客観的に言う言葉ではない。したがって、現代語「狂おしい」と古語「ものぐるほし」との間には断絶があるように感じられた。あるいはこれは「くるほし」と「ものぐるほし」との間の断絶なのかもしれない。『今昔物語』には「ものぐるはし」の他に「くるはし」の用例がある。ただし、今回探した範囲では、「くるはし」「くるほし」は中古の随筆・物語に用例が見つけられなかった。
 
 「ものぐるほし」は、どちらかというと和文脈に現れる、というより女流日記など女性の仮名文に現れる。それに対し、「くるほし」「くるはし」は漢文訓読調の文章に現れる傾向があるという。男女差があるのかもしれない。女流仮名文の中で、「くるほし」に「もの」が着き、女流仮名文から発した「ものぐるほし」が、男性である兼好の文章に流入してきたとき、若干の意味の変質があったかもしれない。
 しかしまた兼好は『枕草子』を熟読したであろうから、「職の御曹司におはしますころ」「いみじう暑きころ」の用例を知っていて、それに習った使い方をしたとも考えられる。
 
 さて、Ⅰの欄に入る用例が、実際『源氏物語』に存在する。すでに現代語「狂おしい」に近い意味で使用されていた可能性がある。それは認めざるをえない。
 それにしても、そこから直ちに、『徒然草』序段の「ものぐるほしを「異様に感興がのってくる」のように解釈するのは、無理なのではないか。「戲作三昧」のような境地と読むのは、やはり近代的解釈に過ぎるのではないだろうか。それは、「ものぐるほし」の対象の問題になるが、自分の心理のどのような部分が「ものぐるほし」なのか具体的に記されていないからであり、対象は書く行為(そしてその結果)であるとしか読み取れないからである。それをより分かり易くするため、「書きつくれば」の部分を検討してみたい。
 

六、「書きつくれば」の「ば」の解釈
 
 徒然草序段については、見た限りすべての注釈書が、「書きつくれ」を、「書きつける」「書きつけてみると」と解釈している。これは接続助詞「ば」を偶然の条件としてみていることになる。ある薄手の受験用注釈書の一冊には、わざわざ「ここは原因・理由には訳さない」と注記してあるが、その根拠は示されていない。誰もが疑いなく信じているこの解釈は本当に妥当なのだろうか。
 「…とりとめもなく書きつけるものだから、妙にいいかげんな気違沙汰の内容である」「妙にばかげていて見苦しい行為である」のように「ば」を、原因・理由に解釈することはできないのだろうか。このような訳にすれば、謙辞と見ることは容易である。また、「ものぐるほし」が、書かれた内容についてのものか、書く行為についてのものか、対象に二通りの解釈が成り立つこともよくわかる。
 
 兼好の『徒然草』に大きな影響を与えた『枕草子』の跋文については原因・理由に訳しているのである。
 [ただ心ひとつに、おのづから思ふ事を、たはぶれに書きつけたれば(カキツケタノデ、カキツケタノダカラ)物にたちまじり、人なみなみなるべき耳をも聞くべき物かはと思ひしに、はづかしきなんども見る人はし給ふなれば、いとあやしうぞあるや。]
 これを見てもわかるように、「いいかげんに書いたのだから」という解釈の方が妥当だと思われる。
 硯に向かう行為が、習慣的に日々繰り返されていることを考えても、偶然条件よりは原因・理由に解釈したほうがよい。
 序段の「ものぐるほし」を、分類Ⅲ・Ⅳのように(事後反省)として解釈する場合は、『枕草子』跋文のように「書きつけたれば」の形の方がわかりやすいと思う。が、そうなっていないので、どうしてもⅠ・Ⅱのような(同時反省)解釈になってしまう。
 しかし、『徒然草』の完成まで、長い期間を必要とした以上、序段も今日ただ今の気持ちだけを述べているのではあるまい。執筆を続けているときの、あるいは執筆を終えた時の感想とした方が適切であるように思う。
 序段だから最初に書かれたであろう。とすると同時になるではないか、と言われるかも知れない。しかしその場合も、わずか数行書き始めたばかりの序段が、これから書かれる内容を全て予見し、代表するものではないわけで、ここはやはり、謙辞とするべきだと考える。
 また、「…書き付けると、妙に正気を失ったような気になる。…異様なまでに興が乗って行く」という、偶然条件で、なおかつ「狂おしい」に近い訳では、謙辞というより独立した一段の随想になってしまう。
 この辺は、『徒然草』成立論に関わるので、今、筆者の手には負えない。
 
 「徒然草全注釈」から引用してみよう。
 [この段は、著者兼好の、とある一日の執筆生活の感想として考えてよいのであろう。この段の表現が、随筆作品形成の過程を示し、その本領を道破したものとする説は確かに肯けるが、それだからといって、この段を全編の総序とする考え方には飛躍があり過ぎる。ありのままに己の制作境を披瀝したことが、結果として、随筆文学の形成過程を示すことになったまでであると考えるべきであろう。]

 
七、小林秀雄の与えた影響
 
 小林秀雄に「徒然草」という文章がある。少し引用してみる。
 
 〔兼好にとって徒然とは「紛るる方無く唯独り在る」幸福並びに不幸を言ふのである。「徒然わぶる人」は徒然を知らない、やがて何かで紛れるだらうから。やがて「惑ひの上に酔ひ、酔ひの中に夢をなす」だらうから。兼好は徒然なる儘に、徒然草を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、目が冴えかへって、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さを、「怪しうこそ物狂ほしけれ」と言つたのである。〕(昭和十七年)
 
 いかにもひねった解釈で、独創的で魅力的である。ここでは「物狂ほし」は明らかに執筆中の心理状態について言われており、筆者はこの文章が自己観照的な意味合い(五章の分類Ⅰ)による解釈の出発点なのではないかと思っている。この偉大な評論家の解釈が、一部の研究者の間に受け入れられ、その著書を経て広く定着してしまったのではないか。(この辺の検証は別の論に譲らなければならないが)
 しかし、小林秀雄の直観的解釈は、必ずしも国語的には妥当でなかったのではないかと思われる。古典作品を現代人の心理にならって解釈することにもそれなりの意味があるだろうが、それが大きな誤解を生じさせる危険性については十分注意しなければならないだろう。
 
 
八、おわりに
 
 『徒然草』序段の解釈は、なぜ諸説があるのか。そしてどの解釈が最も妥当なのか。この十年ほど考え続けてきたことを、少し集中して調べてみました。そして、あえて、一般に通用しているのとは違う解釈をとってみました。とはいえ、手近の資料にあたっただけで、参考に読むべき論文も見ていない現在の段階では、うまくまとまるはずがありません。『徒然草』という深い沼の一部に無謀にも飛び込んで溺れそうになり慌てて這い上がったというところでしょう。まことに要領を得ないものになってしまいましたが、この段階からまた少しずつ調べて、いつか納得の行く考えにたどり着けたらいいなと考えています。お気づきの点がありましたら、ぜひご教示お願いします。
 
 
 
 この小論は、「上山明新館高等学校研修集録第8号(2002年)」および「山形県高等学校国語教育研究協議会研修紀要第39号(2005年)」に掲載していただいたものです。後者で第七章の小林秀雄についてを付け加えました。
 この論中でさらに考えようと思った点も幾つかあるのですが、ほったらかしてあります。本当に暇になったら考えてみようかなと思っています。
 
 参考まで