1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)番外6

防穀令 1890(明治23年) 

 岩波新書『近代日本と朝鮮』趙景達(2012)より

 第5章「一八八五年になると、韓国人以外の外国人にも内地旅行が許可されたため、日本商人は生産地に出向いて米の買い付けを行うようになった。その結果、春に出向いて買い付け、秋に入手するという青田買いが横行した。米穀取引はますます投機性を強めていき、貧農民を苦しめた。八五~八九年は凶作であったため輸出量は少なかった(21,472円と54,394円)が、九〇年には前年に比べ、いきなり四七倍ほど(2,540,652円)に跳ね上がっている。」輸出額の高騰は92年まで続いた。これに対して「一八八九年秋に咸鏡道観察使趙秉式が発した防穀令は有名である。

 

 上記の部分が気になったので少し調べてみた。

 防穀令は、大韓帝国以前から朝鮮国内各地域で行われていた救荒対策であったが、産地(農村)を保護すれば他方で消費地(都市)が困窮するという難題もあった。これが開港後の国際貿易でも問題になることが予想されたため、防穀令についての協定が結ばれていた(日朝修好条規? 在朝鮮国日本人民通商章程?)という。すなわち、発令の1ヶ月前には予告するということである。しかし、上記の咸鏡道の場合などは大豆禁輸についての予告が遅れ、日本商人に損害(春に貸付けた金が回収できない)が出た。その賠償問題がこじれて長引いたのだ。何故遅れたのかは未詳だが、日本側の強硬さと地方官吏が協定を熟知していなかった面とがあるのではないか(参考にしたサイトは最後に載せてあります)。

 

 上記の「米輸出額47倍」についてだが、同時代の塩川一太郎『朝鮮通商事情』(明治28.1)によれば、朝鮮からの米輸出額は、明治22年(1889)が77,578弗、23年(1890)が3,550,478弗、24年(1891)が3,366,344弗、25年(1892)が2,443,739弗となっている。明治23年の米輸出額(㌦)は22年の26.3倍である。この47倍と26倍の違いは何によるのか? 円ドルのレートが関係するのか? 当時は1㌦≓1円ではなかったか? (塩川同書中の別表ではこの数値が全く違うが、単位が違うだけなのか、理由は不明。別表23年874,665。24年928,010。別表25年、487,601。単位不詳、印刷が潰れていて読み取れない。)

 

 当時の日本では米が輸出商品であり、豊作が続いたこともあって、1888・89年には20万トンをヨーロッパに輸出していた。しかし、人口の増加、都市住民の米食普及などにより、91年以降は生産量を消費量が上回り、良質米の輸出を続けながら食糧輸入もせざるを得なくなっていた。

 

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 1885~89年の朝鮮は凶作だったというが、1890年は『朝鮮通商事情』によれば豊作だった。一方日本では、89年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が高騰し、翌年には不足分を補うため193万石(約29万トン)の米を輸入することになった。ただ、これがすべて朝鮮米だったわけではなく、1930年代に100万トンを超える量を輸入していたのに比すれば、数万トン規模の微々たる量であり、29万トンの数分の一の量だった。

 

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 凶作で米不足になれば米価は暴騰する。金額で47倍(あるいは26倍)という数値が出ているが、輸出量の増大の実態(㌧数量)は金額に比例せず、それほど激しいものではなかったかもしれない。趙景達は輸出量(石、㌧)と輸出額(円、㌦)を明らかに分けていないので分かりにくい。日本側の一方的な搾取の一例というニュアンスが感じられるが、要は、旧来の問題が未整理のまま国際市場へ開かれた時点で顕在化した「事件」だったのだろう。

 大蔵省の統計グラフでみると、日本への外国米の輸入は、明治23年(1890)に29万トンであったが、翌年には三分の一程度に減り、翌々年にはさらにその半分程度になった。その中で朝鮮米は1890・91年にほぼ同量輸入されている。外米の産地が朝鮮、中国、台湾、東南アジアに限られるため、それらの地域の作況によって輸入先や輸入量は大きく変動するのだろう。

 併合後の輸出増大(米騒動、産米増殖運動による)のはるか前の話である。

 

 下記のサイトを参考にし、引用もさせていただきました。

その3:お米の自給率:農林水産省 (maff.go.jp)

日清戦争前の朝鮮の状況③ 日朝貿易と防穀令事件 反日感情を高めた問題行動 (sinojapanesewar1894.com)

日中韓近代史の復習問題/『現在の米中・米朝・日韓の対立のルーツとしての中国・韓国の外交詐術は変わらない』★『記事再録/日本リーダーパワー史(705) 『日清戦争の引き金の1つとなった防穀令事件 <1889年(明治22)>』★『最後の最後の最後まで、引き延ばし、拒否戦術で相手をじらし土壇場にならないと妥協しないのは中国/朝鮮側の常套手段』 | 前坂俊之オフィシャルウェブサイト (maesaka-toshiyuki.com)