実家に残っている、母方の長谷川家の残影。ゴム印2個である。
【左側の印面】 印面は縦書きだが、ここでは出来ないので横書に表記する。
鉄瓶火鉢梵鐘 井 長 谷 川 長 兵 衛 (井は丸に井)
警 鐘 鍋 釜 類 振替東京二三八九〇番
製 造 商 電話 番
【右側の印面】(全体が梵鐘の形の中にある)
小野田商店 長
羽 谷
鑄 造 所 川
前 甚
山形市銅町 吉
「丸井」の名で商売をしていたのは、四代目平治郎(改名して長兵衛)の全盛期だろう。記録には「福井工場」という記述もあり、初代、二代の「福井屋」という屋号も知られていた(使われていた?)。
甚吉は五代目だが、父四代目と共に長谷川家の最盛期を築いた。大正13年に四代目が亡くなり、37歳の甚吉が相続した。甚吉は山形市の銅器鋳造業界でも主立った役割を担っていたようだが、大正末期から昭和初期にかけての不況もあり、家運は傾き倒産した。その後は戦時の金属統制が始まり、銅町全体が仕事を失っていった。
「小野田商店鋳造所」となったのは何時頃であろうか。四代目長兵衛は同じ銅町の同業者小野田平左エ門家から婿養子に来た人で(妻も養女なので三代目の血は絶えている)小野田家とは強い結びつきがあったと思われる。
「丸井」は現在もマルイ工場があって、甚吉の弟甚太郎の子孫の方が受け継いでいる。この工場は、もと小野田平左エ門家の場所にある。
昨年は銅町長谷川長兵衛家の歴史をまとめたが、本家に残存する資料も少ない。このゴム印も長谷川本家にお譲りして長く保存していただくことにした。
【 注 】
この記事は少し前に下書きを書いていたもので、その後の新しい資料を見る前の段階のものである。