1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)番外 2

 併合前後の朝鮮半島の人口について

 

 昨年12月26日の記事1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その5 - 晩鶯余録でも書いているが、人口の推移について再考してみる。

 いろいろな資料に出ている朝鮮の人口は、それが同年の何月の集計なのか(たとえば5月か6月か12月か。国勢調査は10月)によっても微妙に違うし、内地人(朝鮮在住日本人)や外国人を含めた人数なのか、朝鮮人だけなのかによっても違っているので、比較するのに注意が必要だ。

 1910(明治43)年の朝鮮人のみの人口、1312万8780人とあっても、同年12月末日の人口は1311万5449人なので、前者はおそらく1911(明治44)年の前半くらいに締めた人数なのではないかと思われる。

 1913(大正2)年の朝鮮人のみの人口も、6月末のものは1489万8241人で、12月のものは1516万9923人となっている。

 下に例に取った1925(大正14)年についても、資料によっては朝鮮人のみで1902万人(国勢調査)と1854万人(統計年報)という二つの数字が見られる。今は国勢調査報告に従ってみる。

 

 前に書いたように、1907~1910年の間に毎年4%の増加があったことについて、それは戸口調査の精度が年々上がったための「見かけ上の急増」ではないかという疑いを拭いきれない。実際、国勢調査のあった年(1925、1930、1935、1940)には増加率が前後の年に比べて大きく上がっているからだ。

 それで、別の視点から考えてみた。

 併合前後の調査結果が信頼できないとしても、後年の資料(特に国勢調査の年の)を見れば、必ずこの間に生まれた人数の増減が反映しているだろう。人口ピラミッドがあれば一目瞭然なのではないか。

 ウェブ上で見つけられた人口ピラミッドは、1925(大正14)年の朝鮮総督府国勢調査を元にした絵はがきである。これに加えて国勢調査報告の生の数値も見てみた。

 

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大正14年10月1日現在の人口ピラミッド(単位は1万人に付)

  1925(大正14)年の国勢調査報告を見ると、併合から15年後の状況が分かる。

 当時の人口を1950万人(内地人・外国人含む)として、横目盛で100は19万5千人に当たる。ほぼきれいなピラミッド型をしているが、底辺、最下段が突出しているのは、幼児死亡率が高かったせいだろう。1926~1930年の嬰児死亡率は男児25.2%、女児23%という資料がある。(「日帝植民地期は朝鮮人の健康にどのような影響を及ぼしたのか―植民地近代化論の虚と実」黄尚翼、李恩子、2015)

 

 まず20~24歳の年代が男女ともに少ないのが分かる。この年代は、ほぼ1901年~1905年の生まれに当たる。日露戦争の時期である。1904年には旱魃もあったらしい。

 国勢調査のあった年のうち、1925(大正14)年、1930(昭和5)年、1935(昭和10)年の統計を見ることができたので、5歳刻みでの変化を読み取れるのではないかと考えた。

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 男女に分けてあって見にくいかもしれない。

 1925年の資料については、14歳以下をひとまとめにしたものしか探せていない。

 下の人口ピラミッド(男性のみ)では、3回の国勢調査結果をおおよそのグラフにして重ねてみた。1925年の14歳以下の3段階は、絵はがきを見ておおよその目分量でグラフを写した。基本的に人口は増加の傾向にあるので、1925年よりも1935年のグラフが右に出張る。色を変えているが分かりにくいだろうか。

 1925年に20~24歳の世代は、1925年以降1935年までは自然な減少をしていると見えるが、1930年、1935年と経るにつれ、5年前の同年代より少なくなっていく。

 1924年以前1901年までの間に大きな減少要因があったはずだが、今これ以前の資料がないので分からない。だが、そもそも出生数が少なかったか、乳幼児期の死亡率が高かったのだろうという推測はできる。それが旱魃日露戦争の影響だったということか。

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 1894(明治27)年~1895(明治28)年の日清戦争東学党の乱(甲午農民戦争)の時期の方が朝鮮民衆への影響が大きかったように思うが、統計上は日露戦争期ほどの大きな影響が見られないようである。

 

 1925年に5~9歳の年代、つまり1916~1920年生まれの人数も極端に少ない。5年後のグラフを見ると前の同世代との差が小さかったり、それより少なかったりする。コレラスペイン風邪の流行、米価騰貴、三一独立運動などの影響ではないだろうか。幼児に限らず成年も減少したのだろうが、その影響を上の図から読み取るのは困難である。

 上にも引用した資料(「日帝植民地期は朝鮮人の健康にどのような影響を及ぼしたのか」2015)によると、1919~1920年に朝鮮で伝染病(コレラ)が大流行した。分かっている限りで4万人ほどが罹患し、2万4800人ほどが亡くなった。致死率60%は怖い。コレラなどの感染症は毎年のように流行したが、この両年は全国的な大流行であった。(「植民地朝鮮におけるコレラの大流行と防疫対策の変化―1919年と1920年の流行を中心に―」金穎穂『アジア地域文化研究№8、2012,3』も参照した。

 別に月別死亡率の統計も掲載されているが、それを見ると1918年の死亡率が突出して高いことが分かる。 年齢別の統計を確認したい。

 

 総人口(朝鮮人のみ)の推移を統計年報の数字でみると、

  1915年 1596万人 (前年より34万人増加)

  1916年 1631万人 (35万人増加)

  1917年 1662万人 (31万人増加)

  1918年 1670万人 (  8万人増加)  

  1919年 1678万人 (  8万人増加) この2年間の増加が極端に少ない。 

  1920年 1692万人 (14万人増加)

  1921年 1706万人 (14万人増加)

 

 上の人口ピラミッドではこの世代の人数が正確に表現されていないが、1925年から1930年までの減少は多くなかったようだ。

 1歳毎の統計もあるので、それを細かく見れば何か分かるのかも知れないが、この辺でひとまず措くことにする。

 

 とりあえず、天候などの自然条件、伝染病の蔓延、戦争・内乱などいろいろな影響を受けた世代もあるが、人口ピラミッドが裾広がりであることから、併合期以降の人口は増加(出生率の増加、幼児死亡率の減少、平均余命の伸長)していると言えよう。

 

 1906(明治39)年の人口について、592万8802人とか710万人とかの資料があるが、これらは正しくないことが分かる。国勢調査の結果を見れば、1925(大正14)年の時点で1905年以前生まれの人が990万1158人いたことが分かるからである。600万人とか700万人だった人口層が、19年後には減りこそすれ、990万人に増えるわけがない。

 

 一度UPしたが、いいかげんだったので大幅に改稿した。

 人口について、下記の頁で再考しています。

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮における土地制度の変遷)番外5 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)