1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その8

「韓国における農地制度の変遷過程と発展方向」

 ③併合以後の土地制度 続・続

  下線部1)の後半、「膨大な朝鮮王朝の所有地が日帝朝鮮総督府の所有地として転換された」について、の続き。

 

 「国有地創出」と「武装調査団」という説明について

 

 紛争地調査の様子

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 画面下に標杭が立っているが、1本は仮地番地目を標示したもので、他の9本は所有権主張者の名が書かれている。一つの土地にこれだけの紛争が重なっていた。調査班は申告書等の書類を持ち、制服を着ている。左から5人目の人物はサーベル様のものを持つ警察官か? 子供が写っているのが面白い。

                     (朝鮮総督府『朝鮮土地調査事業報告書』より)

 

 話が次々とずれていくようにも思うが、前回引用した「植民地下における土地調査とその性格」(全雲聖・上野重義、1987)という論文を読むとどうしても触れておきたくなった部分がある。まず、国有地について以下のように書いてあった。

 

 「土地調査事業の必要性  第1に、植民地統治のための租税収入源を確保する必要があったこと、第2に、土地調査事業以前に取得されていた日本の商人資本の土地占有を登記制度の導入によって合法化する必要があったこと。1906年以前にも主に日本人の土地家屋の売買と所有権を法的に保証する土地家屋登明規則があったが、不十分であったためである。第3に、国有地を創出して総督府所有地に編入し、急増する日本人移民に対する払い下げ用地を確保するためである。以上のうち、とくに重要な点は登記制度の確立によって土地所有の近代化と財政の近代化を図り、総督府の財政収入を確保するためであったと考えられる。」

 

 下線部の「国有地の創出」という表現は、「隠結や未墾地の発見」という以上に、「民有地を奪って国有地にした」という意味合いを持たせているようである。しかしそれは創出ではなく「土地私有制」の過程で「原所有者」を確定する作業をした結果でしかない。原所有者を確定するためには、各自の申告を基本とする他にどんな方法があっただろうか。(「永賭」と呼ばれる制度が曲者のように思うが今説明できない)

 日本人移住者(移民)への農地供給については別に書くつもりだが、東洋拓殖などへの国有地払い下げに基づく事業は必ずしも成功したわけではなく、土地が換金可能となったために抵当とされ、個別に朝鮮人農民から日本人に流れてしまったものの方が多かったようだ。

 その他の、租税収入の確保とか登記制度の導入などは、近代国家として当然必要なことだっただろう。

 

 次に気になったのは、土地調査事業について「武装調査団」という記述がある。調査には書類整理などの内業班と実地調査の外業班があった。

 

 「朝鮮総督府内臨時土地調査局を新設し、そのもとに「外業班」という武装調査団をおいた(愼鏞廈、1982)。武装調査団は土地調査局出張員及び警務官憲を以て構成され、現地で面長(村長)、里・洞長(大字)、地主総代及び主要地主を加えて土地調査を行った。/土地調査出張員は土地調査事業を実施するために特別に訓練された調査員であり、日本人調査員と韓国人補助員から成る。彼らも軍警の制服を着用し時には武装させられた。事業に対する韓国農民の反対斗争を弾圧し、出張員の身辺保護をするのが警務官憲の任務であった。当時義兵の武力抗争が高まっていた時期であり、土地調査事業の実施には憲兵警察が不可欠であったのである。」

 

 当時の写真を見ると調査員、測量員は(内業も含めて)皆制服を着ていて、確かに警察官のようにも見える。しかし、武装してはいないだろう。(下の追記を参照)

 警察官の護衛が付く場合もあったが、それは、併合直後の時期でもあり、義兵というパルチザンや強盗団の危険が予測される場合に対処するためであって、常に農民を威嚇するような目的ではなかっただろう。下は内業の様子だが、制服が見える。朝鮮服の人もいるようだ。

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 『朝鮮土地調査事業報告書』には以下のような記述が見られる。

 「土地調査を開始すべき地方決定し、土地申告の地域及期間を告示せられたるときは、外業班に其の担当区域の指定を為し、当該道長官に調査の開始を通知し、警務部長に本局出張員の身辺保護を依頼し

 「予め日を期して、一郡毎に面長、洞里長、地主総代、及重なる地主を一定の場所に召集し、庁当局者、警察官憲及当該地方を担当すべき準備調査監査員列席の上、土地調査の趣旨・方法、地主の義務、土地調査測量の順序等に関し詳細なる説明を為さしめ、同時に土地調査事業説明書、土地申告心得、地主総代心得及地主に対する注意書を配布せしむ。」

 「警察官憲に対し、従事員の宿舎設置に関し尽力を依頼する」

 

 もちろん当時は武断統治下にあって、総督府では警察と憲兵が一体化しており、各道の警務部長と憲兵隊長は同一人(軍人、佐官)の兼任だった。警察と憲兵の管轄は地域的に別れていて、警察官の常駐しない地域では憲兵が護衛の任にあたったのだろう。

 

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 大韓帝国の警察官(wikipediaより)     右が戦前大正・昭和期の日本の警察官制服(立襟五つ釦)

 明治時代は日本も上のような制服だった。  左は戦後の制服。終戦直後で両方使用されていたようだ。

 

 一方、『報告書』では、最後の方で「遭難」という項目を立て、調査中の事故例を記録している。その中には奥地に分け入って毒蛇に噛まれたとか、熊に食われたとか、山火事に遭ったとか、一人で行って行方不明になったとか、川に流されたとかの例が書いてある。強盗に捕まって隙を見て逃げ帰ったという例が一つあるが、これを見ても特に戦闘があった様子は無く、調査班が常に武装していたわけではないと思われる。(下の追記を参照)

 また、自画自賛的ではあるが以下のような記述もある。

 「古来朝鮮に於ては土地の丈量を行いたること既に一再に止まらず。而も之を以て悉く租税誅求の手段と為したるが為、本事業開始の際に在りても人民の之に対する感想良好ならず。民心動もすれば疑惧に傾き、流言蜚語の伝えらるること亦少からざりき。是を以て本事業趣旨の周知に関しては準備調査の当初、最力を之に注ぎたり。為に作業に当り甚だしき支障に遭遇したることなきのみならず、本事業の半途以降、一般人民は調査済の地方に於ける状況と効果とを伝聞し、喜びて其の権利義務を履行し、又進みて出張員の業務を援助し、速に調査の終了せんことを希むに至れり。」

 

 

〔追 記〕 朝鮮総督府の官吏・教員とサーベルについて

 趙景達『植民地朝鮮と日本人』岩波新書2013)によると、

  「朝鮮人には武器に類する刀剣の所持を禁止する一方で、威嚇と身分標識の装置として、憲兵警察だけでなく一般の官吏や教員までもが制服の着用とサーベルの帯剣を義務づけられていた。」

  とある。土地調査局の吏員たちは、制服は確かに着ているが、サーベルは義務だったのか?

 義務とまでは言わなくても、軍人上がりの教員などは帯剣していたという記事があった。1919(大正8)年6月、三・一独立運動時の『時事新報』記事「朝鮮統治の現状(一~八)」によると

 

 「武官は兎角サーベル政治を好むの癖がある、現に今日朝鮮に於て文官である司法官や学校教員迄が自然に武官政治に化せられて帯剣して居るではないか。」

 

 「我官憲の鮮人に対する態度は略ぼ上述の通りであるが我在留邦人の態度も亦一般に頗る横暴不親切である、彼等は兎角朝鮮人を蔑視し不法に彼等を待遇するの傾きがある、近頃も朝鮮内地を旅行して帰って来た人の話に郡山の附近で一邦商が孱弱い一朝鮮婦人を捉え、物を盗んだと云う口実の下に、彼女を路上の立木に縛り着け而して自分の伴れて居た番犬を唆しかけて彼女の手足に咬み付かしめ、彼女が悲鳴を揚げて泣き叫んで居るのを素知らぬ顔で見て居ったと云う、又某鮮人の直話に拠ると邦商の一部には総督府の官憲と結託して朝鮮人に金銭を貸し与え其間に随分不当の利益を貪る者もあると云う、例えば高価な土地や建物を抵当として僅か許りの金銭を融通し期限に為って金を返済して来なければ如何に其鮮人が延期方を哀願するも直に差押え処分を決行し其土地や建物を奪い取ってしまうと云う、殊に甚だしいのになると、返済期限を例えば某日の正十二時迄と定めて置きながら自分の時計の針を一時間ばかり進めて置き、返済人が丁度正十二時に返済に来ても自分の時計が既に一時に為って居るからと云って契約の不履行を責め結局土地や建物を巻き揚げてしまう 其他朝鮮内地を廻って居る邦商の中には安い粗悪な品物を誤摩化して高く押売する者も少くないことは申す迄もないと云う」

 

 この記事の下の方の内容(時計の誤魔化し)は、山辺健太郎の記述と一致する。よく話題にされたエピソードなのだろうが、もともと伝聞のようだし、話がよくできている感、無きにしも非ず。サーベルは出てこないが引用してみた。

 

 「某朝鮮名士の談に拠ると朝鮮内地に於ける普通学校(小学校)の教員は大抵軍人上りで彼等は皆サーベルを腰にして教場に臨むと云う事である、帯剣は教員の威厳を保つ手段の積りかも知れぬが、斯くの如きは恐らく世界教育界他に見ることを得ざる現象であろう、現に朝鮮在住の外人は此の現象を見て頗る苦々しく思い又当局の政策の浅薄であることを憫笑して居ると云う、而して彼等教員は生徒に向い口癖の様に「汝等は陛下に忠良なれ、陛下の御恩を忘るる勿れ、然らずんば此のサーベルを以て切るぞ」と威嚇するのみならず、若し其際少しでも側目をして居る者があるとか或は私語して居る者があると、直にサーベルで酷く打擲することすら往々にしてあると云う、且つ余りにクドクドして忠君を説き立てるので生徒の耳には爛熟し過ぎて却て厭気さえ促すの結果を呈して居ると言う者もある 斯くては折角の忠君論も説くに其道を以てせざるが為めに反対に不忠の人を養うの弊に陥らざるを得ない」

 

 これも伝聞だが、「名士の談」とあり、こういう軍人上がりの教員は実際いただろうなと思われる。

 

 西川清『朝鮮総督府官吏 最後の証言』桜の花出版2014)を見ると、1940年代にはスーツだったり、国民服を着ている写真はあるが、一般官吏が警官のような制服にサーベルという写真はないので、おそらく1910年代の武断政治時代に比べ、状況は大きく変化したのだろう。

 金達寿『朝鮮ー民族・歴史・文化ー』岩波文庫によると、武断統治下では

 「軍人でない官吏や教員まで制服を着用し、腰に剣をさげ、専ら威圧によって朝鮮人を屈服させようとした。」

 が、三・一運動の後、

 「総督を武官に限る制限が廃され、憲兵警察に代って普通警察となり、官吏、教員の制服帯剣はやめられた。」

 とある。官吏の制服帯剣は制度化されていたのか?