『史記』項羽本紀、項王自刎の場面における項羽の「笑」について(2)

(1)の続き
 
5、「天之亡我」の検討
 「天之亡我」。この言葉は項羽本紀後半に三回現れる。最後の一回を除いて、いずれの場合も「非戦之罪」と対比されて出てくる。これは、「現在の状況は、自分の戦いの仕方が悪かったせいではない。」と読める。項羽は二十八騎の部下を率いて数千騎の漢軍に挑み、そのことを証明して見せもする。「非戦之罪」を「非我之罪」と読みかえれば、ここには「天」対「我」の対立の構図が見えてくる。すなわち、項羽は「天」に従おうとはせず、自らの自由な意志を貫こうとする強烈な個性であった。
 この「天之亡我」は、「天」が大いなる審判者として項羽を罰しようとしているのだろうか。そしてこのとき、項羽の心中では、「運命への反抗」から「運命の受容」へという一大転換が起きたと解釈するのがよいのだろうか。あるいはその転換は急ではなく、垓下で「時不利」と歌い、死を覚悟して虞美人と別れた時点から、すでに滅びる運命は自覚されていたとみなされるかもしれない。確かにここまでは、項羽にとって絶体絶命の状況が繰り返される。「天」はすでに、次の天下をとる者は沛公と定めたのだろう。項羽には天下を統べる力はなく、かえって排除しなければならない存在となっていた。「天」は徹底的に、項羽の意志を打ち砕こうとする方向に動く。諸侯は反し、愛馬は逝かず、田夫さえも彼を欺く。しかし項羽は、挫けることなく走り続ける。何のために?
 さて、その項羽の前に烏江の亭長が船を用意して待っていた。何という幸運であろうか。だが、それもまた「天」の仕業であったといえる。なぜならこれは項羽の与り知らぬ運命であったのだから。
 とすれば、これは「天の我を亡ぼす」ではなく、「天の我を救う」ではないか、と読者は思われるだろう。そこで、項羽を生き延びさせることが同時に項羽を亡ぼすことになるとの解釈を成り立たせるための資料として、同じ『史記』にある「天喪予」という言葉を挙げたい。それは孔子世家第十七にある。顔回の死に際して孔子の発した言葉が「天喪予(天予を喪ぼせり)」である。(注2)ここでの「喪ぼす」は、決して孔子が殺されるわけではない。この「喪」は、孔子の最大の希望が奪われたことを意味している。これを援用して考えると、天下の覇王となることが項羽の最大の望みであったとすれば、それを奪い江東の王に格下げすることは、項羽を「ほろぼす」に等しいといえるだろう。
 「天」の意図(というものがあれば)を考えてみると、それは「ここまでよく逃げ延びた、命だけは助けてやろう。ただし西楚の覇王ではなく、江東の王として。」というようなものではないか。
 天はやはり自分を「亡ぼそう」としているのだ、この幸運は決してはまってはならない罠なのだ。亭長が心からの親切で言った「亦足王也」が、項羽の心中にこのような思いを起こさせたのではないか。
 ついでに、あまりに現代的な解釈にはなるが、亭長と項羽の会話を聞いているはずの二十数騎の者たちを想像してみよう。亭長の申し出を聞いた時には、死中に活を見いだした喜びを感じたであろう。では項羽の言葉を聞いた時はどうであろうか。もし項羽が自嘲し、恥ずかしくて国には帰れないからここで死ぬと言ったのなら、いったい彼らのここまでの死闘はなんだったのか。少し前に、項羽の「天之亡我、非戦罪」という言葉を聞き、実際に項羽の強さを再確認し、項羽とともにその天に対して挑み続けた男たちは、どのようにこの自嘲の言葉に納得して死んだというのだろうか。
 項羽を倒した漢の高祖(劉邦)を見てみよう。彼は晩年、矢傷を負って病が重くなった。呂后が名医を呼んだが高祖は「命は天にあり」と言って治療を拒み、ついに死んだ。この場合、高祖は項羽と同じように、生きる可能性を取らずに死を選んでいるのだが、その行動の意味するところは全く反対であり、天命には絶対服従するという態度である。それは、高祖が天下を手にしえたのは人力ではなくまさに天授であり、だからこそ最期もまた天命に従うべきであると考えたからであろう。その点項羽は、天によらず自らの武力で天下を取ったとの意識が強かったので、最期にだけ天命を受け容れるわけにはいかなかったのだろう。史記ではことごとく対照的に描かれる両者であるが、この場合も例外ではないわけである。
 
(続く)