今更ながら、若者よ本を「読め」

 最近顕著に感じる事だが、今の高校生世代に60代の自分の常識が通じない。常識というか、もちろん、物自体が身近から無くなっていてそれに関する知識がないということは当然だ。たとえばセルロイドの筆入れ、アルマイトの弁当箱なんか知らない。七輪を小道具に使うが、どうやって火をおこすか分からないというようなことだ。また、ガッツ石松は知っていても森の石松を知らない。いわんや清水次郎長をや。これは、講談なんてものを聴いたことがないから知らないのは当然だろう。しかし、日本人の共通知識だったものの多くが欠落しつつあるのは確かだ。今始まったことではないのだが。
 もっと感じるのは、文章の行間を読むことが出来ないということ。今年も漢文で項王の最期をやっているが、昨年までには感じなかったことがある。烏江の亭長が項羽に「漢軍至るも以て渡る無し」と言うが、そこで「どうして渡る手段がないんだ?」と発問する。答えられない。「他にも船はあったはずだが、どこに行ったんだ?」と聞くが答えられない。「川に浮かんでいる」とか言ったりする。
 また、笑って亭長の申し出を断った項羽が、「籍江東の子弟八千人と江を渡りて西す。今一人の還るもの無し。」と言うが、「西したのはいつのことだ?」と聴いても答えられない。直前の頁に、「我兵を起こしてより八歳」と書いてあるのだが、そこと結びつかない。なぜ八千人連れて西したのかも言えない。「逃げた」「沛公と戦いに行った」などと答える。
 漢文訓読を現代日本語に置き換えて訳した気になっているが、「意味」は分かっていないのだ。
 これは漢文に限ったことではあるまい。古文も現代文も同様だろう。つまり「読む」「読解する」という過程ができないのだ。自分の生徒を悪く言うつもりではなく、全体的な傾向として言っている。
 読書しない人間が文章を読めないのはあたりまえのことかも知れない。明治時代まではそういう人間も多かっただろうが、この教育の普及した現代に於いて本を「読めない」人間が増えているような気がする。自分が読むようには現代の高校生は本を読めない、ということは単に年齢の積み重ねの差からくるのだろうか。いやそれだったら急に気になるほどその差が目立ってくるわけはないだろう。若者の読書離れが言われて久しく、ついにある閾値を超えてしまったのかも知れない。これでは文化の継承にも支障が出てくるのじゃないかと心配したりする。

 台本が読めないというのもこれと同じことなのだろう。まあ、読み込みの要らない台本ばかりやっていればそうなるのは当然だ。