直前講習でセンター試験過去問を解いていると、次のような一文が出て来た。以前に何度か見ているはずだが、あらためて少し考えてみる。(あくまで素人考えですので、間違いなどご指摘いただけましたらありがたいです)
「詎知薫染既深後雖欲進乎杜也可得乎。」(平成22年センター本試)
直感的には「詎(=何ぞ)~乎」の反語形と思われる。その場合の訓読は「詎ぞ薫染すること既に深く、後(のち)杜(杜甫)に進まんと欲すと雖も、也(また)得べきを知らんや。」であると考えられる。
意味は、「どうして(明・宋・晩唐の詩に)深く薫染した後では、(盛唐の)杜甫の詩に進もうとしても、またそれができることを分かるだろうか、いや分からない。」あるいは倒置して、「どうして分かるだろうか、深く薫染した後では、杜甫の詩に進もうと思っても、またそれができることを。」であろう。
反語形は疑問の形を借りた否定だから、その訳は、疑問詞を「不」に置き換え、同時に終尾詞を断定の「也」に置き換えることで分かる。
そうすると、「杜甫の詩に進むことができることが分からないのである。」ということになる。
しかしこれでは問題文全体の趣旨とは合わない。
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実際には訓点が施してあって、読みは「詎ぞ知らん、薫染すること既に深く、後杜に進まんと欲すと雖も、也得べきかを。」である。
つまり、文末の終尾詞「乎」を「か」と読み、「可レ得乎」を疑問形に解釈している。文頭の疑問詞「詎」に呼応する形で「や」と読むのではないということである。
これだと「どうして…できるかどうかを分かるだろうか(分からない)。」になる。ここから少し飛躍して(飛躍できない生徒も多いだろうが)、結局は「分からなくて、できない。」に近い意味になり、文章全体の意味に合っている。
このように、訓読の仕方で意味は違ってくる。
「できるのにそのことが分からなくなっている」のか「できなくなっているのにそのことが分からない」のか。
この違いに注目すると、傍線部の解釈を問う選択肢が紛らわしい。
②「詩を学ぶ者は、宋代・明代の詩や晩唐の詩の影響を既に色濃く受けてはいても、のちに杜詩を学べばまた得るところがあるのを知らないのだ。」
⑤「詩を学ぶ者は、宋代・明代の詩や晩唐の詩の影響をすでに色濃く受けてしまっているので、のちに杜詩を学ぼうとしても、もはやできなくなっていることを知らないのだ。」
もちろん、②の選択肢では「雖」のかかり方が違っていて、「杜詩を学べば」と順接になっているから誤答として排除できるのだが、下線部だけ見ると混乱してしまうかもしれない。
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問題文全体の意味からして、文末が疑問形の読み方でないと通じない。が、句法の基本しか知らない高校生に、白文でそのように読ませるのは無理である。「反語形の中に、終尾詞を用いた疑問形が含まれている」などという文は見たこともないだろう。それで問題文では訓点をすべて施して疑問形と分かるようにしてあるのだ。
ただ、送り仮名が「也可キカヲ得乎。」になっていて、終尾詞を読んでいないが、その理由が理解できない。ここは「也可キ得乎ヲ。」であるべきではないか。
【例文1】「何謂之難遇、而屈指数之於三旬間哉。」(平成24年センター追試)
「何ぞ之を遇ひ難しと謂ひ、而して指を屈して之を三旬の間に数へんや。」
通常はこの例文のように、文頭の疑問詞と文末の終尾詞がどれほど離れていても両者は呼応していると考えるのが第一であると教えている。
だから、この問題文のように、文末部分を切り離して読むのはイレギュラーな感じがするのである。
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「何知~乎」の形で全体が反語形になる場合ももちろんある。
【例文2】「何知其解之果能得其意与否也。」(角川書店「漢文解釈辞典」237頁)
「何ぞ其の解の果たして能く其の意を得たると否とを知らんや。」
「どうしてその解釈がはたして十分に適切であるかどうかを知ろうか、知りはしない。」
この文を「何知、其解之果能得其意也。」のようにして、「何ぞ知らん、其の解の果たして能く其の意を得たるかを。」と文末を疑問形に読むと、問題文と同様の読み方になる。意味は「どうして分かろうか、その解釈が果たして十分に適切であるかどうかを。」になる。意味は例文の原文とほぼ同じである。
ある時代以降、このように文頭の「何知」が独立した否定語のように使われ、文末の終尾詞との呼応関係が切れてしまう傾向が出て来たということがあったのかもしれない。実証的に言えるわけではないが。
逆に問題文を、「詎知薫染既深後雖欲進乎杜也可得与否乎。」のようにしてみれば、読みは「詎ぞ薫染すること既に深く、後杜に進まんと欲すと雖も、也得べきと否とを知らんや。」となって、意味が分かりやすい。
「可レ得否(得べきや否やを)」のようにするともっと分かりやすいだろう。
つまり問題文に、選択ないし疑問の形が入っていれば、全体を反語形に読んでも分かりやすいということである。
ただし、この辺は日本人の感覚であって、ネイティヴの中国人なら問題文のままでも違和感なく解釈できるのかもしれない。
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明・清代の漢文は、語彙自体が、日本語の中に取り入れられて熟していないものが多い。これはまた時代の変遷による変化(複雑化)の他に、元以来の北方異民族支配による文化の変質がある所為なのかもしれない。
日本の教科書ではもっぱら古代の文章や唐宋八大家の文、唐詩などを読むので、センター試験の出題文に多い比較的新しい時代の文章には違和感や抵抗を感じる場合が多い。そういう意味ではセンター試験(漢文)は学校教育の現場と齟齬しているとも言えようか。
【付記】
「薫染すること既に深く」の部分を、「薫染すること既に深ければ」のように順接確定条件のように読むと、より分かりやすくなるかもしれない。