『史記』項羽本紀、項王自刎の場面における項羽の「笑」について(注)

注1 たまたま目に触れた大修館書店「漢文教室」一八六号(平成十二年五月)掲  載の小出貫瑛氏の論「項羽の「笑い」―「項羽本紀」の感情表現」でも、人間性を  呼び起こされたものとされている。
  教科書指導資料の例を挙げると、「楚の名将の血を引く自己の誇りが強くよみが えってきて、戦いに敗れて一人生き延びることを潔しとしない心情」などと説明され ている。(桐原書店古典Ⅱ)
  なお「漢文教室」一八〇号(平成七年二月)掲載の生田隆氏の論「教室における 「四面楚歌」の解釈試論」では、「乃」の文字に着目して次のように書いている。「彼 は此処で、自分の現在的運命が、「天」にあって、「戦」(自分の能力)にあらざるこ との実証をぜひ顕示しておきたかったのだろう。さし当たり、活路でもあるが、自分 が大いなる「天」に支配されているということへの認識を、自分は勿論、並みいる  人々に見せたかったのだ。」「助かりたいという心と、対立的に存在する、「天之亡 我我何渡為。且籍与江東子弟八千人、渡江西今無一人還。…」儒教的倫理観が 天命思想をともないつつ「乃」の根底にある。…可成り長い思案を経た後の「欲東 渡烏江」であろう。一と時そう思うのであったが、その場にあって、「項王笑曰…」と むしろ反対の方向、儒教的倫理観に傾いた決断をしたのである。」
  筆者は、項羽の態度についてこの論とは全く反対の解釈に立つ。
 
注2 孔子世家第十七「顔淵死。孔子曰『天喪予』」
    論語先進編「顔淵死。子曰『噫天喪予、天喪予』」
    なお、「ほろぼす」の意味で「喪」と「亡」は同義である。
 
注3 伯夷列伝第一「孔子曰『伯夷叔齊不念舊悪、怨是用希。求仁而得仁、又何怨 乎』余悲伯夷之意。睹軼詩可異焉。」
  論語述而編「入曰『伯夷叔齊何人也』曰『古賢人也』曰『怨乎』曰『求仁而得仁、  又何怨乎』」
  史記は「春秋」「国語」「楚漢春秋」等の史料に拠りながら、その描写は司馬遷独 自のものであり、彼の意図に基づいて再構成されていることは既に研究されてい  る。朝日新聞社「中国古典選史記春秋戦国編」解説及び巻末論文「『史記』におけ る人間描写」(昭和四十一年)を参照した。
 
注4 「これは私の罪だろうか」という訳は、平凡社「中国の古典シリーズ1史記」(昭 和四十七年)によるが、他書では「これは私の罪である」となっている。父母に受け た身体を、宮刑を選択することで敢えて毀傷したのは罪であるという解釈であろ  う。原文は「是余之罪也夫」であり、詠嘆形であるのは明らかである。直前の談の 言葉「命也夫」も詠嘆に訳しているのだから、ここだけ疑問にとるのは不審である  が、一方、たとえば論語憲問編「子曰『莫我知也夫』子貢曰『何為其知子也』」を  『私を本当に知ってくれる者はないのであろうか』と疑問のように訳している本もあ り、にわかに否定しがたい。疑問ないし反語に読み得るものなのかご教示を乞う。
 
注5 朝日新聞社「新訂中国古典選史記(春秋戦国編)」解説には、史記には怨恨  の嵐が吹き荒れている、との評言がある。司馬遷は一方で人間を支配する因果応 報を肯定しながら、他方で悪因悪果・善因善果にならない不条理をも感じていた。 しかし、「天に対するかれの懐疑は少しも拭われぬまま、なお天の善意を信じよう  とつとめた。だからこそ、客観性の希薄な因果応報の思想も、かれの切実な悲願 として、なお『史記』の全体に流れているのである。」
  なお同書に紹介のある、今鷹真「史記にあらわれた司馬遷の因果応報の思想と 運命感」(中国文学報第八冊)を見ても同様のことが述べてある。
 
注6 「報任少卿書」は、徳間書店史記Ⅴ思想の運命」(昭和四十七年)二百九十  七頁以降を参照した。
 
(以上この記事終わり)