おいしいですよ

 昼飯にあるカツ屋に入った。人気店らしい。お二人様こちらですとカウンター席に座らせられる。
 メニューを見て注文する。おすすめメニューを強調され、連れはそれを頼むが自分は普通のヒレカツ定食を注文する。混んできて席が埋まり、待つ客も出てくる。しばらくして調理している主人が、奥さんであろう接客係に何か言う。奥さんがあれ、やりませんでしたか?あれどこにいっただろうとか言って、注文お聞きしましたか?とか言うから、注文しましたよと言うと、○○とヒレの焼きですねと言うから、思わずそうですと言うが思い返すと揚げだったので揚げですと言う。ああ、今から始まるんだ、これまでの時間は何だったんだろう。
 この時点でもうダメだった。自分はこういう接客業の行き届かなさというか不徹底さというか無愛想さというか、に全く耐性がないようだ。
 以下、ひねくれ親父が文句を書く。面と向かって言わないのは卑怯かも知れないし、こんなことで怒るのは大人げないかも知れないので読みたくない人は読まないでください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 本当に読まないでください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 割り箸の袋にサラダの食べ方、カツはソースをかけないでつけて食べるようにとか書いてあるのも、もう面倒な店だとしか思えない。出て来たヒレカツ定食は、以前よく食べていた近所の肉屋の2階のものよりうまいとも思えない。値段からみてもそうだ。食べ終わったら、おすみでしたら食器を上げてくださいと言われる。デザートが出る。狭いから置けなかったのだろう。カウンター席のマナーなのか。尾花沢のスイカです、おいしいですよと言うので、どれだけおいしいのかと思って食べるが普通のスイカである。よく冷えた器に入れた柚シャーベットも出る。いろいろ出てくるのはいいが、なんか本筋と違うような気もする。
 おいしいですよと言われるが、考えたらおいしいかどうかはこちらの判断に属するのだから、提供する側に言われたくない。おいしくないじゃないかと言ったら喧嘩になるのか。言ってはいけないのか。
 
 自分は客だから対価に見合うサービスを期待する。不満足なら二度と行かないだけである(来なくても良いと言われそうだが)。また、好き嫌いは自分のことだから他に譲歩する必要はない。選択する権利はこちらにある。提供する側はそれを覚悟の上でいなければならない(まあ、今は流行っているから良いのだろうが)。
 無愛想でも料理がおいしいと思えば行くだろうし、普通の味でも店の雰囲気が良ければ行くだろう。
 客商売は難しいものだ、とうてい自分にはできない。
 
 さて長々と文句を書きましたが、馬鹿な親父だと思われたことでしょう。馬鹿ですからご容赦ください。
 
 
 実は言いたいのは芝居のことで、つまり、おもしろいですよと当人から言われて観てみたら予想ほどにおもしろくなかった、という場合どうしたらいいかというようなことだ。
 
 さらに言えば、高校演劇は芸術か、人気商売か。
 観客のことを考えない芝居はありえないだろうが、真に芸術性に裏付けられた作品は観客のレベルを超えて自立するのではないか(…芸術性って何だ?何を気取っている)。
 しかし高校生にそれを求めるのはそもそも論外なのかも知れないし、少なくとも現在のようなコンクール(審査)制度の中からは、そんな高校演劇が現れることはないだろう(…だったら言うなよ)。
 
 おもしろかった、おもしろいですよ、おもしろいのが作りたい。
 おもしろさを競っているのならおもしろい方がいいに決まっている。あなたはどんな「おもしろさ」を求めていますかということだ。みんながおもしろいと思うだろうものを作りたいのか。
 
 すごかった、すばらしかった、圧倒された、幕後席を立てなかった、別の世界にいるようだった、何だか分からないけれど泣けた、声も出なかった。そういう芝居が自分にとっては「おもしろい」のです。
 ただの個人的な好みの問題です。