暑い 職場もいよいよ冷房が入った

 「河野談話」の成立過程を検証した結果が公表された。
 それを読めば、日韓両国政府が、いわゆる従軍慰安婦問題を決着させるべく、可能な限り歩み寄った末の談話であり、女性基金であった事が分かる。
 ただ、民間団体である挺身隊問題対策協議会などが猛烈に反発し、両国政府の努力を台無しにしてしまった。「強制性」のみが強調され、まるで日本軍兵士が銃で脅して拉致したことの証明書であるかのような扱いをされてしまった。
 これで落としどころは無くなってしまった。これで、ある種の人たちは永遠に日本を非難し続けることができるようになった(と思っただろう)。
 その不幸な結末をありのままに記録したということだ。
 信頼を裏切られたのは、あそこまで譲った日本の方であろう。その無念さが滲み出ている。
 
 
 ネットでたまたま見つけた論文があるので紹介したい。
 長いけれど一部引用させていただく。
 
 …引用開始…
 
 4.日本軍「慰安婦」と米軍基地村「洋公主」の相同性
 
 では、特定の歴史的な局面において構成され、日本軍「慰安婦」と米軍基地村「洋公主」を歴史的な連続線上で思考するというのはどういう意味だろうか? 日本軍慰安所と米軍基地村がもつ制度としての違い、歴史的空間の違いがあるにも関わらず、筆者はそれらを弁別的主体として特定の局面にのみそれぞれ停泊させないことによって遂に「見えるもの」があると考える
 第一に、制度として、日本軍慰安所と米軍基地村は近代以降軍事化された世界秩序の歴史的断面を表している。両制度はともに、自国の軍人の士気の高揚、戦闘力の維持、性病の効率的な防止のために考案されたもので、そのために人種化された他国の女性の身体が動員されたという共通点をもつ。シンシア・エンローが指摘したように、軍事主義は金と武器だけでは存続できず、特定の性的関係を保障する政策に依存する。したがって、軍事主義の企画においてジェンダー関係は男性軍人に対比される対象(性的対象としての他国の女性)を維持、再生産するように組織されなければならず、それは男性軍人の再生産のための必須条件となる。…中略…
 
 第二に、慰安婦制度や基地村制度は、被植民地、地域男性の意図的/非意図的な共謀があったために可能だったシステムである。まず、すでに少し言及したように、日本軍慰安所に朝鮮女性が大規模に強制動員されえた背景には、伝統的な儒教・家父長社会において「嫁入り前の」朝鮮の処女の性的純血が疑いの余地無く「事実」として認識されたという点である。何よりも実際に朝鮮人男性の共謀がなければ、かくも多くの朝鮮女性が「挺身隊」という美名の下で組織的に動員されえただろうか(日帝強占期の公娼制を維持できた大規模な人身売買の体系をはじめ慰安婦動員を仲介するときに朝鮮男性が介入したという事実は、生存者の証言や多数の歴史的資料からすでに確認されている)? まして「慰安婦」の動員に関わった韓国内の男性による証言の不在、「慰安婦」問題自体に関する韓国社会の長い沈黙、公論化されて以降も継続する民族の「恥辱」という強力な言説が物語るものは何だろうか?
 米軍の休息と娯楽のための空間として、基地村もまた韓米両国の同盟の中で建設されたが、韓国国民の「日常の承認」がなければ維持されるのは困難であっただろう。米軍政下で米軍兵士クラブを運営した者は韓国人男性であり、その後確立された基地村の性売買を経営し管理する者もまた韓国人であった。彼らの経営手法が、チョン・ジンソンが明らかにした日帝時代の企業慰安所の形態と類似しているという点もまた驚くべき事実ではない。性売買の抱主やクラブの事業主のみならず、不動産業者、地域の公務員と警察、周辺の商人もみな日常の中で米軍の存在を「当然のもの」として受けいれた。しかし、皮肉にもその「当然のもの」は社会的な「害毒」をもたらす「性病保菌者」として、「隔離」の対象である「洋公主」という非正常な存在と同時性をもっている。…中略…
 
 第三に、両問題は、民族主義の高揚のためのアリバイとして動員される女性の「凄惨な」経験という側面において相同性をもつ。これこそが、「慰安婦」と「洋公主」の身体がなぜ大韓民国の国民の無知と関心、沈黙と暴露の不連続線上に置かれるのかを説明してくれる。被植民者の去勢された男性(性)=無能な国家と民族を象徴する記標としての「慰安婦」、羨望と屈辱の空間としての基地村、卑屈な韓国男性の二重性を顕現する存在としての「洋公主」は隠されるべき民族の羞恥であると同時に国家の自主権、民族の自尊心、植民地主義帝国主義の残忍さを告発する記識として選択されてきた。このうち、「ユン・グミ事件」は、「洋公主」の現存が韓国社会で公認された初の事件として記録されるべきものである。当時米軍によって凄惨に殺害された「洋公主」の身体は、主権を侵奪された祖国と同一視され、基地村は奪われた民族の領土として召還された。こうして、生前ただの一度も「真の」民族の一員になれなかった「汚い」「洋カルボ」は、死後はじめて「民族の魂」として昇華した。アメリカ帝国主義の「犠牲」となった女性の身体は、その後反帝、反米民族主義運動を後押しする触媒として機能した。このように「慰安婦」と「洋公主」という存在の「公認」が、韓国の民主化民族主義意識が高揚した1990年代という時代的同時性をもつという点は、偶然というよりは必然であると思われる。…中略…
 日本やアメリカの立場から見ると、女性の身体は「外部の他者(敵)」を攻略したり無力にする機制であり、彼らの内部の男性性を再構築する基盤となる。韓国の立場から見ると、それらの女性の身体は実質的に両国の関係を持続させる足掛かりとなってきたが、時に日本軍と米軍の「残忍さ」の証拠となり、日本帝国主義アメリカ帝国主義の不道徳さに対比される韓国民族の道徳的な優位を確認したり、「強い民族=男性性」を再構築するために動員される。何よりも他国によって性的侵害を受けた「貞操を捨てた女性」は「正しい女性」に対する反対抗的なリファレンスとして機能し、効果的に女性を分ける境界線となる。「慰安婦」や「洋公主」は、民族国家の設立過程で望ましい「女性」をつくるための規制的フレームとして機能したに過ぎず、物的存在と身体としての女性の経験は削除される。そのため、実在した物的存在としての「女性」(慰安婦であれ洋公主であれ)は、大韓民国の歴史と現在において非存在として幽霊のように彷徨するが、適切な時期に動員される「記標」はむしろ実存性を獲得するのである。
…以下略…
 
 …引用終了…
 
 
 引用したのは
 立命館言語文化研究23巻2号所収
 『日本軍「慰安婦」と米軍基地村の「洋公主」―植民地の遺産と脱植民地の現在性―』
 LEE Na-Young(李 娜榮)/呉 仁済(訳)
 
 自分はジェンダー論は苦手なので、うまく引用できていないと思う。独特な用語は難解だが、面白い視点だとは思う。こういった考えが韓国内でももっと広く自由に述べられたらいいのではないか。