歩いている

 今日も徒歩通勤。路面状況が悪く、渋滞するので歩いた方が気楽である。無散水消雪道路を選んで歩くので全体の4分の3は快適である。帰りは上りになるので行きより時間がかかる。
 日中は快晴だが気温は低いのでそれほど溶けない。烏や雀は過ごしやすそうに見える。


 慰安婦像の問題で韓国側の挑発がエスカレートしている。釜山総領事館前の像は移動しないし、新たに竹島に置こうというのだから、「平和の少女像」ではなくて、ただただ反日のためのモニュメントであることは明白だ。
 サンフランシスコ平和条約では日本領とされたにもかかわらず、昭和27年(1952)、李承晩大統領が勝手に引いた線によって、竹島は韓国領とされた。サンフランシスコ平和条約発効後、昭和28年(1953)に米軍の射爆場としての使用が終わると、韓国によって武力占領され、以後多くの漁船が拿捕され巡視船は島から銃撃された。拿捕された船員達は苛酷な環境に置かれ、日韓交渉の人質にされた。
 当時の日本共産党は武力奪還を主張したが、政府は平和的解決を目指し、その後一貫して日本領であることを主張し続けている。そのため、占領後の韓国側の様々な行為(建築物の設置など)も領有を正当とする証拠にはならない。
 徹底した反共主義者であり、反日でもあった李承晩は38度線で北朝鮮と対峙しながら、一方では軍による対馬侵攻を本気で準備していた。しかし、(その隙を襲った)北朝鮮の侵攻であっという間にソウルを落とされ釜山に追い詰められた。李承晩はあろうことか日本に亡命政府を置こうと考えた。
 韓国軍の中の旧日本陸軍将官だった指揮官が踏みとどまり、米軍の仁川逆上陸によって戦況が好転したため亡命は消えたが、もし実現していたら対馬は韓国領になっていたかもしれない。
 李承晩は日本併合下の朝鮮には居らず、オーストリア人の妻を持ってアメリカに暮らしていた。独立運動では上海の大韓民国臨時政府大統領だった。戦後、米軍政下の朝鮮半島に移る。
 李承晩は国内の共産主義者を弾圧し100万人を虐殺した(保導連盟事件など)。そのため、多くの韓国人が日本に逃れてきた。多くは密航・密入国である。伊集院静「海峡」という小説にその様子の一端が描かれている。夜、女子供を含めた人達が海上で船から船に危険を冒して乗り移るのである。不法入国した彼らの子孫も在日韓国人特別永住者)として日本で暮らしている。

 現代のヨーロッパにおける難民問題のようなことが、当時既に日本にあったのだ。戦中に徴用された朝鮮人達のほとんどは戦後すぐに帰国したが、その後の半島の混乱で再び流入してきたのである。韓国は不法入国者の送還に応じなかった。もちろん、戦前から日本本土で定住し生活基盤を国内に持っていたため、戦後日本国籍を失っても日本で生活することを選んだ人達は特別永住者として別に扱われている。

 今、「日本軍慰安婦」を異様な「性奴隷」として非難し続けているが、事実は公娼であり、慰安所は民間の経営者によって作られ運営されていた。商売である。もちろん軍の指導援助はあったが、軍が慰安婦の募集や採用に直接に関与したわけではない。まして強制的に拉致したなどありえない。近年発見された「慰安所日記」を見ても明らかである。
 もし20万人の若い女性を日本軍の兵士が力尽くでさらっていったとしたら、家族や近隣の人々は絶対に黙っていなかっただろう。警察に訴えただろう(警察署員の多くは朝鮮人だった)し、暴動が起きただろう。しかしそんな形跡は全くない。事実でないからだ。実際は戦前の日本と同様に、家族の生活のために身売りする(親に売られる)女性達がいたということだ。女性を集める女衒は、地域の詳しい状況を知り、親たちも相談しやすい朝鮮人だったろう。慰安所経営者にも朝鮮人は多かった。「慰安所日記」の筆記者もそうである。そういった人達の証言があって然るべきだが一切出てこない。もし調べて証言を集め、出版でもしようものなら、「帝国の慰安婦」の著者のようにたちまち親日として訴えられてしまうだろう。

 ウイーン条約違反だとして、外国の公館に対する侮辱行為をどの範囲まで認めるか。某中国人が、激しいデモのことを指しているとして、銅像の設置くらいでは該当しないとか言っていたが、それでは中国での日本大使館への過激なデモ、ペットボトルやら卵やらを投げ込んだあの騒ぎはどうだったんだと言いたくなる。自分の国のことを棚に上げて国際条約を解釈し韓国の擁護をしている。これも反日無罪なのであろう。
 日本もいいかげん我慢の限界に来ているし、世界の秩序というか枠組みというかが転換期に入り、一部の国の国家的欺瞞が明るみに出て来て(広く知られるようになって)いる昨今では、もう反日・侮日で生きていくわけにはいかないだろう。やっとパール判事の言ったように、正義が所を変えて見直される時期が来たのかも知れない。