雑記

 書こうと思ってなかなか機会がなかったことを、とりとめもなく書いてみる
 
① 昨年秋、地区大会に向かう頃から不調だった。大会作品に取り組みはじめた頃は肩の力が抜けているとか感じていたのが、だんだん緊張してきたのだろう。
 自宅某所の窓硝子に模様があって、あるパターンを繰り返しているのだが、いつもそこに長髭の、眉も垂れた老人の横顔が見えるのだった。よく天井板の木目に何かの像が見えたりするあれだ。
 それが見えなくなった。確かにこの辺、と思うのだがどうしても見えない。記憶とか、心理とは恐ろしいものだ。
 県大会が終わった後は、何事もなかったように再び見えるようになった。
 
 
② 大学生の頃、仙台でずいぶん映画を観た。貧乏学生なので、名画座とか青葉劇場で旧作を観た。当時はスタンプを集めると無料券をもらえ、正月には招待券が来た。学内でもいろいろ上映会があって、『フーテンの寅』も『非行少女』もそこで観た。山田洋次監督の処女作『二階の他人』とかもそこで観たのだったか。
 いつか映画を撮ろうと思って、絵コンテみたいなものを描いたこともあった。映画論なんかも、エイゼンシュタインモンタージュ理論とか松本俊夫とか読んだ。フランスのヌーベルバーグから入って、ロブ・グリエなどのヌーボーロマンに至ったりした。
 しかし自分は漫画研究会を作っていたので映画を撮るには至らず、漫画と映画を同じ映像表現として見ようとしたりしたが、時間性という点で両者は決定的に違うのだった。
 映像と演劇の違いもまた分かるつもりだ。
 
 
③ 昭和12年12月に南京であったことに関して、当時の日本側従軍カメラマンが撮影し、陸軍報道部が編集した映画がある。公刊されていて、自分も購入した。当時の様子がリアルタイムで写っているのだから貴重な資料だ。死体は写っていない。
 以前に、これを新採の地歴の教員に見せたところ、その感想は、「当時の軍はこういう映画を作らなければならなかったんですね」というものだった。
 自分はその映画から大虐殺の痕跡を見出すことは出来なかった。若い教員もそうなのだろう。しかし、彼女は意図的に隠蔽して編集されていると見たのだ。
 確かに映像は嘘を真実に見せることも出来る。戦時中、アメリカのフランク・キャプラが編集した『中国侵攻作戦』という映画がある。これも500円で買える。この映画は編集やトリミングや演出によって日本軍の蛮行を強調しているプロパガンダ映画である。孫引きされて実際の虐殺シーンとして誤伝されたりもしている。
 しかし、映像というものは注意してみれば真実が見える。自分には後者の嘘くささは分かったが、前者には見て取れなかった。(実際に観ていただければいいのですが、印象は人それぞれかもしれない。)
 何が言いたいかといえば、若い教員が納得したような笑顔で嘘と決めつけたその判断がどこから来ているか、だ。自分の判断なのか、何か信仰のように他から教え込まれたものなのか。
 自分もかつて高校生の頃、『三光』などの本で(斬首写真が載っている)「日本軍の残虐な蛮行」を知るにつけ嫌悪を覚えたものだ。その後、それらの証言は特定の収容所で、ある意図を持って処遇された人たちのものなのだと知った。それだけのせいではないが、だんだんと憑き物が落ちるように、いろいろなものの見え方が変わった。
 自分の感覚・判断を失って、無批判に特定の考え方を思考の前提とするのは恐ろしいことであろう。