1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その17

 産米増殖計画 その2

 

 「飢餓輸出」説について

 「産米増殖計画」でウェブ検索すると上位に出てくるレポート「産米増殖計画期の日本と朝鮮」(近藤郁子、立命館大学ゼミ)から引用させていただく。(下線は引用者)

 引用開始

 (2)1920年代の産米増殖計画

 ところで産米増殖計画は、1920年代の「文化政治」と密接に関わっている。産米増殖計画の立案を「三・一独立運動」後の統治政策との関連をみると、次の二点があげられる。

 まず第一に、将来さらに悪化が予想される朝鮮の食糧不足・米価騰貴に対してとられた措置であり、その意味で社会政策的性格を帯びていたということである。当時、朝鮮における米収穫高は安定していないにのにもかかわらず、人口は着実に増加していた。しかも、日本の一人当たり年間米消費量は一石を上回っていたのに対して、朝鮮人の場合は0.7石(1915~18年平均)と少なかった。したがって何らかの対策を講じなければ、これまでの朝鮮総督府がとってきた農業政策、すなわち日本のための食糧供給基地化政策を行なわざるを得なくなり、朝鮮人の食糧事情をますます悪化させる。

 (3)産米増殖計画の問題点

 最後に、この産米増殖計画の中で生じた問題について記す。第一に朝鮮農民の深刻な食糧不足・経済的破壊を引き起こしたことである。1910年代から30年代にかけて、日本人一人あたりの米消費量は恒常的に年1.1石内外であるが、朝鮮人一人あたりの米消費量は12年0.77石から32年0.40石へと激減する。これは朝鮮の農民自身による米の積極的な商品化の結果ではない。農民の所得米は高率小作料・高利貸の介在によってわずかしかなく、しかも租税負担等のために、そのわずかな籾を唯一の換金作物として、出廻期に庭先で売らざるを得なかったことによってもたらされたのである。

引用終了

 

 上記レポートにあるように、朝鮮における米の平均消費量は減少していったことから朝鮮米の内地への移出は「飢餓輸出」であったということが言われる。自分の作った米を、自分の食い扶持まで内地へ売ったということだ。

 

 1人当り米消費量の減少について 

 朝鮮半島での米の総消費量(総生産量に輸入移入量を加えた総供給量から、輸出移出量を差し引いた量。)を総人口で割った値を平均消費量とする。資料によれば平均消費量の減少は明らかである。

 大正元(1912)年には、総消費量およそ11,029千石で人口はおよそ1,413万人なので、1人当り平均消費量は年0.78石になる。一日にすれば2.14合である。この歳の内地への移出量はおよそ246千石(総生産量の2%ほど)だった。

 昭和3(1928)年、朝鮮は豊作で、総消費量およそ11,080千石、人口はおよそ1,867万人なので、平均消費量は年0.59石になる。一日1.63合である。この年の内地への移出量はおよそ7,069千石(総生産量の41%ほど)であった。

 

 この減少の原因を考えると、まず第一に、人口の急激な増加に生産量の増加が追いつかない結果であったと言える。耕地面積が増えず反収が伸びなければ生産量は増えない。そんな中で人口が増加すれば、当然1人当りの消費可能量は減らざるを得ない。

 また、急激な人口増加は幼少年齢層の増加を意味する。彼らの米消費量は大人の消費量より遥かに少ないだろう。この結果、総消費量が増えても全体の平均消費量はさらに下がっていく。

 日本内地に於いてもこの傾向が見られることは前回引用したグラフで見て取れる。

 

 以前、人口について考察したが、あらためて1925、30、35年の14歳以下人口の、総人口に対する割合を見てみる。

           a 総人口   b 14歳以下人口  割合 b/a

 大正14(1925)年  19,522,945人  6,491,287人   33.25%

 昭和  5(1930)年  21,156,393   8,345,582    39.45

 昭和10(1935)年  22,893,038   9,306,213    40.65

 

 毎年30万人ほどが新に生まれ、14歳以下人口が増加して総人口の4割を占めるに至っている状況である。低年齢層の増加によって、当面、平均消費量は減少していくが、将来、人口ピラミッドが三角から釣り鐘型に安定してくれば、平均消費量も総消費量も大きく増加することは必然である。何らかの対策がなければ食料危機に陥ることは予想できた。これは近藤氏のレポートの通りだ。

 現代中国の「一人っ子政策」のような産児制限ができない以上、米を輸入するか、国内で増収をはかるかしかない。国内で増収できればこれに越したことはないが、内地の水田はもう増やし難い。しかし朝鮮は内地に引けを取らない米作に適した風土であり、農事改良などでまだまだ反収の伸び、収穫量の増加が期待できた。それで産米増殖計画が立案されたのだ。(開墾、干拓、灌漑事業もあるが、後に回す。)

 

 生産量が増えても移出量が増えたので総消費量は減少した

 総生産量に対する総消費量の割合は、朝鮮統治の始めには95%ほどだったが、次第に低下し、昭和に入ると70%を下回るようになった。30%以上を輸移出し、幾許かを輸移入(台湾・日本から)していた。

 前回引用したグラフでも分かるように、1920年代前半の内地では、反収も総生産も停滞していた。一方人口は増加するのだから、不足する米は輸移入しなければならない。それで朝鮮からの移入が増えていったのだろう。

 例えば、昭和4(1929)年にはその比は64%ほどであった(総生産量13,512千石、総消費量8,642千石)が、この年、内地へおよそ5,378千石を移出し、台湾から124千石、内地から123千石を移入している。台湾からは安い蓬莱米、日本からは砕米が移入されたのだろう。

 内地への移出量はどのようにして決るのか。政府が一定量を指示するというようなものではなく、商売であるから、大阪堂島で取り引きされる相場による。朝鮮米は、この時期までの改良によって日本人の嗜好に合う美味い米になっていたため、内地米と同等あるいはより高値で取り引きされていた。

 そして米は豊作凶作の差が大きく、不安定である。内地と朝鮮の片方が凶作ならもう一方から補えるだろうが、両方が同時に凶作だったりすれば大変である。この作況が米価に影響し、売買量に影響する。政府は、豊作で内地の米価が低落すれば対策として輸入移入量を制限し、政府自身が買い入れる。凶作で米価が高騰すれば輸入移入を増やし(輸移入税の廃止)、政府保有米を売り出して価格調整を行なうようになった。

 このように米の流通については様々な要因が関わっていて、かなり複雑な影響関係になっている。なので、今、産米増殖計画期の移出入の全貌は良く分からない。(前回引用させていただいた大豆生田氏の論文を理解できていない。)

 朝鮮の米は穀物商や精米所を経て移出される。その元は小作米として地主の元に集積されたものである。仮に朝鮮の水田の全てが小作地であれば、小作料として、総収量の半分が地主の下に集積されるわけだ。圧倒的多数の農民が小作(自小作)人であり、小作料は籾のまま集積される。それを脱穀して玄米にするか精米して白米にするか。輸出港付近には精米所が乱立したという。

 米を集積するのは地主で、売り買いするのは穀物商である。移出米が儲けになるとなれば小作米以外にも農民から直接買い集めるだろう。売ってしまった自家消費分は、安い輸移入米に買い換える。あるいは麦や粟を食べる。こうして農家に貴重な現金収入が生まれる。ただ、「庭先価格は中心市場の籾価格に対して35%程度の格差が付けられていた。」(「植民地期朝鮮の産米増殖計画と工業化」金 洛年 韓国東国大学1995 土地制度史学第146号) 

 貧農は、その現金収入で借金を返済し、また金融組合の奨励する貯蓄に充てることで、借金地獄から抜け出そうとしただろう。

 

 米を内地に売って朝鮮にもたらされた利益はどこへ行ったか

 すべてが穀物商や地主の贅沢に消えたわけではない。それは工産品の移入のため内地に還流し、あるいはまた朝鮮の銀行や会社への株式投資として、これから来たるべき朝鮮の工業化を支える資本となったのだ。

 「大地主・穀物商の株式投資は積極的で、投資の絶対額の増加のみならず、朝鮮人の場合は、その寄与度においても上昇していたのである。また、大地主・穀物商は、単純な株主にとどまらず、会社の代表者である比率も高く、会社の設立や経営にも直接参加していたものも多かったのである。(中略)朝鮮工業化は、こうした地主・穀物商の資金の資本転化(または、一部ではあるが、かれらの経営者化)に負うところも大きかったといえよう。(中略)1920年代の産米増殖計画と、米移出を中心とする朝鮮農業の日本への編入のあり方は、重要な結果の一つとして、朝鮮における農業剰余の増大を生み出し、それが、①朝鮮内の工産品市場の先行的な拡大と、②農業剰余の資本転化、という二つのルートを通じて、朝鮮工業化の内在的展開のための基盤を形成していたといえるのである。」(既出「植民地期朝鮮の産米増殖計画と工業化」金 洛年 より)

 

 飢餓状況は現実にあったのか

 米消費量の急激な減少から、摂取カロリーの減少を以て飢餓状況であったとする論説がある。食糧と農村と人口流出:データで見る植民地朝鮮史 (sakura.ne.jp) からの孫引きになるが、金洛年編のグラフ「主食からの1人当り一日カロリー摂取量」では、1925年以降の朝鮮では、1,958カロリーから1,595カロリーの間にあることがわかる。平均は1,700~1,800カロリーだろう。これは米、穀物類、芋類だけの量で、他に野菜・魚などの分が加わり、大人なら酒も入るだろう。これは「飢餓」なのか? (戦前の日本内地での摂取量は一人一日2,000カロリー程という。)決して十分な食生活ではないが、朝鮮人の殆どが農民で、その多くが小作人であることと、戦前の日本の小作農民の生活水準を考えれば納得できるものではないだろうか。

 (筆者後日注上記の記事中の単位「カロリー」は「キロカロリー」のはずである。筆者も間違ってしまっている。米1合を520キロカロリーとすれば、2,000キロカロリーは3合8勺ほど、1,800キロカロリーは3合4~5勺に相当する。記事中のグラフを見ると、米だけでは1,000キロカロリー(米2合以下)も摂れていないが、その他の穀物でカロリーを摂っていることが分かる。なお南朝鮮では1936年は豪雨、1939年は旱害の被害が大きかったことが食糧事情に影響しているだろう。

 戦争直後の日本人の平均摂取量は1,900キロカロリーほどで(ただし配給量はこれよりずっと少なかった)、その後次第に増えて1970年代には2,200キロカロリーを越えたが、そこから減少に転じ、現在では1,900キロカロリーを割っている。)

 

 産米増殖計画と農民窮乏化の因果関係

 問題は、飢餓か否かということより、上記サイトでも指摘されているように、産米増殖計画によって農民の窮乏化が進んだというところにある。

 自作農が減り、小作農も土地を離れざるを得ず、貧窮者(火田民や傭雇、土幕民)が増えたことが問題なのだろう。それは小作料の重圧の他に、現金が必要な状況が作られたからだということである。具体的には化学肥料の購入、灌漑に伴う水利組合費の負担などがあげられる。借金の繰り返しから抜け出せない貧窮農民が増えたのである。

 この辺については「水利組合」の実態が分からないので調べてから書くことにする。

 

 

 現代日本人は一日に1合も食べないだろうが、昔は一人が一食に米1合で一日3合食べると、一年で1石になる。これが標準と考えられていた時代だ。幕末の日本で、おおよそ水田総面積3百万町歩として反収1石で総収量3千万石。人口3千万人で一人1石というのが大雑把な計算だ。

 徳川時代の江戸町民は5合くらい食べたらしい。玄米でなく白米を大量に食べたので脚気になりやすく「江戸患い」と呼ばれた。宮沢賢治は「一日に玄米四合」と書いた。しかし、一般庶民はそれほどの量は食べず、農民にいたっては極端に少なかった。ドラマ「おしん」に描かれたように、小作農は白い飯など食べたことがなく、大根飯のような「かて飯」や麦飯、粟などの雑穀を食べていたので、標準一日3合と言ってもあまり妥当しない層が多いだろう。これは朝鮮に於いても同様であったはずだ。

 

 

1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その16

産米増殖計画 その1

 終戦後に入る前に、やはりこの「産米増殖計画」についてまとめておかなければならないだろう。植民地経営上、この計画の、朝鮮農村、農民に対する影響がいかなるものであったか整理してみることにした。しかし、かなり複雑な内容なので、自分の頭の中で具体的イメージができないのだった。いろいろ読んでみて、さんざん迷った末に、不十分ではあるけれども、今のところの理解を書いておこうと思った次第です。研究者諸氏の作られたグラフや表に助けられています。(読み取りきれていませんが)

 ついでに、部分的に書き継いできたところに(土地制度の変遷その12以降)通し番号を付けてみました。

 

 第一次計画と当時の米生産・需要供給などの実態

 大正9(1920)年、朝鮮総督府が計画したもので、むこう15年間で42万7千町歩の土地改良を行ない、併せて耕種法の改善と共に約9百万石の産米増殖を期したものである。内、440万石を朝鮮半島内の消費増に、460万石を輸移出に回すというものだった。耕地拡張改良のための調査、既成水田の灌漑改善、地目変更(畑を水田に)、未墾地の開墾や干潟の干拓などの事業を計画した。

 当時、日本内地では人口増加が著しく、毎年70万人の自然増加があった。加えて食生活の向上により低所得層にも米食が普及した。当時内地では毎年6千5百万石の米を消費していたが、これに対して内地の米の生産量は5千8百万石程度で消費に追いつかず、米不足と買い占めから米価の非常な高騰(1石15円→40円)を招いた。これが「1918年米騒動」の発端となった。

 不足分は東南アジアからの外米輸入により補われた。その量は、3百万石から大正14(1925)年には5百万石ほど輸入しており(下表参照)、その購入費用は1億2千万円にのぼった。ために貿易収支は、第一次世界大戦時には輸出超過だったのが、大正8(1919)年以降は輸入超過へと転じて悪化した。

 世界的に米主食の国は限られるため、その交易は各国の豊作凶作などが大きく影響した。そして長粒種の外米は日本人の味覚に合わなかった。(朝鮮での優良品種奨励、台湾での品種改良などによって次第に日本人の口に合う米が、朝鮮、台湾を含む日本国内で増産され流通していくようになる。台湾では「蓬莱米」という品種が作られ、日本人に好まれた。)植民地からの米は「輸入」でなく、「移入」である

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 (「一九二〇年代における食糧政策の展開ー米騒動後の増産政策と米穀法ー」大豆生田 稔)より

 「米穀年度」は前年11月から当年10月まで。だが統計によっては生産額を前年度に充てている(前年度にほぼ消費してしまうため)場合があり、注意が必要だ。また、同じ「米穀要覧」でも発行年によって部分的に違っていたりするので混乱する。

 低下していた外米輸入量は米騒動後1919~20年度に急増している。

 

 同時期、朝鮮においても、併合直後のような毎年30万人という爆発的増加は収まったにしろ、毎年15万人程度増加していた。長期的に見て人口増と1人当り消費量増加を見込むと、食糧供給、内地への移出量確保の為には増産が必要だった。(当時の多くの朝鮮農民(小作人)は、小作料を払った後の米を売り、その金で満洲から流入する安い粟を買い主食としていた。しかし、徐々に生活状況が改善されるにつれ、彼らの食生活も向上し、米食が増えるだろうと見込まれたのだ。)

 「朝鮮に米ができるが、朝鮮人殊に農家は米を賣つて粟を食つて居る有樣である。そのために滿洲方面から年々多量の粟が輸入され、粟は朝鮮輸入品の大宗たる綿織物類に次ぐ重要品となつて居る。併し一般生活の向上に伴うて近來朝鮮内でも一人當り米の消費量も增加の勢にあるので、人口の增加につれて、現在のまま推し移るときは、將來内地へ對する朝鮮米の供給力が乏しくなる憂がある。故に産米の增殖によりて朝鮮内の需要にも備へ、同時に内地への供給も確實性を保つようにすることが急務である。」(「朝鮮産米の增殖計畫」中央朝鮮協会、大正15(1926)年)

 そのため、まず反当り収量を増やすことが求められた。当時、内地では反当り1石8斗5升に対して朝鮮では9斗3升しか取れず、内地の半分ほどしかなかったものを、優良種を用い、施肥量を増やし、よく乾燥させるなどして、生産性を高めようとした。

 

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  産米増殖計画について、ある社会学者にある二つの誤解 (anlyznews.com))より引用

 

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   (「一九二〇年代における食糧政策の展開ー米騒動後の増産政策と米穀法ー」大豆生田 稔)より

第一次産米増殖計画の時期(1920ー1925)には反収の伸びがあまり見られない。一方内地では反収、総生産量ともに減少していることに注意。

 

 内地政府(農林省)と朝鮮総督府の双方の思惑が一致して、朝鮮・台湾を含む日本国内での米の安定的供給(供給量と米価の安定)と貿易収支の健全化のために、大規模な計画が立てられたのだ。

 また内地政府は、米騒動のような米不足=米価騰貴による社会混乱を防止するため、米価上昇を抑える方向で政策を立てる。政府による米の売買によって価格調節をするのである。しかし、初めのうちはその実行時期(米の流通時期)、量、価格などの適切さはなかなか的を射ず、悪戦苦闘、労多くして功少ない状況だった。米を貯蔵する倉庫も十分ではなかった。(この米価調節の部分は大豆生田稔氏の労作によるが、まだ十分理解し切れていない)

 

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 (「1930年代における食糧政策の展開ー昭和恐慌後下の農業政策に関する一考察ー」大豆生田 稔)より

 内地消費量と内地米生産量の差を朝鮮米や台湾米で補っている。豊凶作の変動幅が大きい。なお、内地からの移出もあるので、不足量と輸移入量合計は照応しない。また、下のグラフの縦軸目盛の幅が、内地米生産量と輸移入量では違っていることに注意。内地の総消費量が増加傾向であるのに対し、1人当り消費量が減少傾向であることに注意。これは人口増加=幼少人口増加の影響か。

 

 しかし、大正9(1920)年からの第一次計画は、土地改良の実行機関として民間会社にこれを委託しようとしたものの実現に至らず(贈収賄事件のような不祥事があったようだ)、また物価騰貴に伴う工事費の高騰によって採算が取れなくなってしまった

 こうして第一次計画の成果は不十分なものとなり、大正14(1925)年までに9万町歩の土地改良にとどまった

 

 

第二次計画

 大正14(1925)年、むこう14年間に3億3百万円の巨費を投じ、35万町歩の土地改良を完成しようというもの。水利灌漑により18万5千町歩、地目変更により9万町歩、干拓により7万5千町歩である

 費用3億3百25万円の内訳は、①土地改良事業者(一般企業)に6千5百7万円の補助金を与える。②事業者は3千9百48万円を調達する。③残りの1億9千8百69万余円は政府が斡旋して低利の資金を事業者に供給する。③については、その半分は政府大蔵省預金部から東洋拓殖株式会社、朝鮮殖産銀行を経て貸付る。残り半分は東洋拓殖と朝鮮殖産銀行社債を発行することで調達する。金利は年7朱(=分)4厘程度にとどめるというものだった。(未了)

 

 今回は概ね「朝鮮産米の增殖計畫」(中央朝鮮協会、大正15年7月)に沿っている。他に大豆生田 稔一九二〇年代における食糧政策の展開米騒動後の増産政策と米穀法ー」(「史學雜誌 91 10 1552 - 1585, 1647-1648 公益財団法人史学会 1982年10月)、「1930年代における食糧政策の展開ー昭和恐慌後下の農業政策に関する一考察ー」(城西経済学会誌 20 2 37 - 75 城西大学 1984年12月)を参考にさせていただいた。

 次回以降、「産米増殖計画は朝鮮からの米の収奪で、農民にとっては飢餓輸出であった」という論について考えてみます。

兵士の年齢

戦争で戦う兵士の年齢

 カブール空港への自爆攻撃で戦死したアメリ海兵隊員13人の多くが20代の兵士であるという。上は30歳代である。女性兵士もいたようだ。

 戦争は若者の仕事(語弊があるが)であって、40代、50代のおっさん(兵役を済ませた後の再徴兵)がぞろぞろと兵隊になって出征し戦った大東亜戦争末期のような状況は異例だろう。逆にまた18歳以下の子供まで動員されたことも異例かも知れない。まあ、老人から子供まで全員が戦わざるを得ない状況は、世界の歴史の中で往々にしてあっただろうが。

 フォークランド紛争で出撃した英軍にも10代の兵士はいた。

 

 山形市国分寺薬師堂に「戊辰薩藩戦死者墓」という石碑があって、戦死者の名が書いてある。

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 戊申戦役には詳しくないが「明治元年戊辰九月二十日羽州岩村ニテ戦死」「寒河江村」「長岡村」とあるから寒河江市近辺での戦闘かと思われる。

 山形市発行の「やまがたの歴史」を見ると、慶應四年(九月八日明治に改元)九月一日、米沢藩降伏。十五日、官軍米沢入城。官軍は米沢藩庄内藩攻撃の先鋒を命じる。十九日、六十里越街道より庄内領にせまるべく、官軍は上山城下に集結。この時敗走する旧幕臣桑名藩兵は庄内軍に合流すべく寒河江市長岡山に防禦陣地を構築し、官軍の進行を食い止めようとした。二十日早暁より米沢軍および官軍がこれを攻撃し、一日にして掃討した。これが東北戦争における最後の戦闘となった、ということである。

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 この墓碑銘に見える薩摩藩兵士の年齢は、最年長が33歳である。30代が二人、20代が五人、15歳が二人である。(他に越後の高田大鹿村から夫卒として従軍した清吉という者がいるが、年齢は記載無し。新潟県経由で山形に入る際、雇われて来た者なのか)

 現代は平均年齢が高くなっているので、154年前当時の15歳(数え歳だろうが)は、今に比べれば18~20歳くらいには相当するだろう(人生がゴム紐のように伸びたとしても、ゴム紐に記された目盛の数は変わらないように、成人までの時間が長くなるだけで中身は変わらない。逆に言えば人生の密度は薄まっているという考え)。

 兵隊になって実際に前線で戦闘する(させられる)のは、何時の時代においてもこの世代だということなのだろうか。

 

 

 薩摩軍の編成について、ウェブから以下の記事を引用させていただく。墓碑銘には「番兵二番隊」などとあるが、この「番兵」についての説明がある。

 引用開始

陸軍小火器史(8) ―幕末・維新戦争の銃撃戦(その1)

 「〔引用者注、鳥羽伏見の戦いにおいて、幕府軍に〕対して薩摩藩兵は小銃20隊と3個砲隊だった(『戊辰戦役史』大山柏)。小銃隊の装備は主に英国エンフィールド兵器工廠製の前装ミニエー銃であり、1隊は80人で1個小隊、それが2個の半隊に分けられる。これに指揮役、喇叭手、鼓手などが加わった。20個小隊は出身で分けられ、城下士(じょうかし)10隊、外城士(とじょうし)4隊、遊撃3隊、番兵・私領・兵具の各1個隊である。

  よく知られているように薩摩藩は、城下士と外城士といわれた郷士は対立していた。同じ部隊にはまとめにくかったのだ。番兵といい、私領兵というのも、番兵とは士分でない者をいう。諸藩でいう鉄炮足軽のことである。私領兵とは大身の藩貴族の家臣、つまり陪臣のことだった。ただし、指揮官級には城下士がつくことが多く、外城1番隊長はのちの村田銃開発者、村田勇右衛門経芳(ゆうえもんつねよし)である。」

 引用終了

 なお、「兵具隊」とは、他のウェブ記事によると、砲隊を守備する兵のことらしい。

アフガン戦争の終わりと大国の幻想

 しばらく更新しなかったが、涼しくなったので書いてみる。 

 世の中は騒がしいが、まあほとんどのニュースは流れていく。

 尖閣周辺は少しずつ、しかし確実に緊張が増している。日本とアメリカが尖閣を中国に取らせることはないだろうが、中国は永久的にあきらめずサラミを薄切りし続けるだろうから、いつかは衝突するのは目に見えている。その時は小競り合いか前面戦争か?

 

 アフガニスタンから米軍が撤退した。20年の長きにわたった戦争が終わったというのだが、初期にタリバンを武力で打倒したのは勝利であろうが、撤退の様子を見れば、その後の民主的国家の建設・維持には失敗したということは明らかだ。

 ここで太平洋戦争後の日本の民主化という成功体験を持ち出すのはいささか古すぎるだろう。終戦直後に起きた朝鮮戦争アメリカは韓国を独立させたが、必ずしも民主国家とは言えず、民族の分裂を固定化させもした。そしてフランスの後を受けてのベトナム戦争では、圧倒的武力を以てしても完全に失敗した経験がある。(アフガニスタンについては、朝鮮やベトナムなど東アジア儒教・仏教圏〔とりわけ天皇制下の日本〕と違う、中東イスラム教圏であるという精神的違いも大きいだろう。)

 アメリカはこれらの体験から学ばなかったのか? 

 アメリカは二度の大戦で、ヨーロッパ及びアジアのファシズムを倒し、それぞれの国民を解放したという「栄光」に酔った体験が忘れられないのだろう。それが現実は戦争という殺戮の応酬の結果でしかないことを忘れ、「幻想」を省みることを(多くのアメリカ人は)しなかったのだろう。

 NHK「映像の世紀」で、キューバ危機の際、カーチス・ルメイ空軍参謀総長ケネディ大統領にソ連との全面戦争を進言する映像があった。やられる前にやる、戦争しかないという断言。ルメイは日本本土への無差別焼夷弾爆撃(特に東京大空襲)を行なった人物である。日本人にとっては死に神のような人物が、戦勝国アメリカでは英雄であり昇進した。朝鮮戦争でも多くの都市爆撃を行なった。そして新たな次の大戦争をも進言した。ケネディフルシチョフとの交渉で核戦争の危機を脱する。

 人々は平和のありがたみを感謝したが、ルメイを始めとする軍人や、軍産複合体の人間は失望したかも知れない。ケネディの死後、ジョンソン大統領の下、ベトナム戦争は激化し、やがて北爆へと進み、ルメイは「北を原始時代に戻してやる」と豪語した。

 どこかで、誰かの中で、何かが狂っている。それがアメリカだけでなく、中国までもが、かつてのソ連のようにそういう考えに染まっているとなるとさらに空恐ろしい。中国共産党軍国主義日本と戦って勝ったという「幻想」を一つの原動力にして国家を運営している。もう一つは文化大革命でも呼号された資本家階級打倒だろうが、これもまた幻想である。

 大国がこれらの過去の幻想に立脚し、それを現在に拡大再生産して自己保全していられる時代は、もうあといくらも無くなっていると強く感じる。その先はより良い世界であるように祈る。

広毛タワシの唾さ オリンピック 高校演劇全国大会

オリンピックが終わって高校野球が始まった

 オリンピックは多くの競技でワクワクさせてもらった。疫病による逼塞と酷暑続きの中で、良い気鬱晴らしになった。

 選手の方々(コーチ、チームスタッフ含め)は長い期間、厳しい練習を重ねて来られたわけで、その成果を存分に発揮できた方も、惜しくも予想外の結果に終わった方も、本当にお疲れ様でした。見ている方は、素人のくせにああだこうだと文句を言うわけですが、もちろん期待の裏返しということで、ご勘弁願いたい。

 開会式、閉会式については、「長い」と感じた。前の東京オリンピックの時にはこんなだっけか? ショーアップされてエンターテインメントのようになってきたのは最近だろう。北京とかは、凄い人数で圧倒的なパフォーマンスだった。リオデジャネイロは日本のプレゼンテーション?以外はあまり覚えていないなあ。

 世間ではこの演出についてさまざまないきさつや評価が飛び交っているようだ。素人でもあれこれ代案が出せるというのは、「練れていない」ということではないのか。「簡素化した」にしても、もう少しなんとかなったんじゃないか、と多くの人が思ってしまった。一年間の延期によってお金(ギャランティー)が続かなくなったのか? 予定がとれなくなっていたのか? 日本にはもっと凄い人たちがいっぱいいるだろうに、人選が一番の問題だったのか?

 閉会式を見ていて思ったのは、身体的パフォーマンスの場面では、オリンピック選手が非情に高度な演技を見せてくれた直後なので、ちょっとそこらの大道芸人程度にしか見えなかった。サッカーのリフティングなんて…。その点、歌唱は競技外なので、プロの歌い上げるものは素晴らしいと感じられた。宝塚歌劇団の国歌や男性ソプラノのオリンピック賛歌は良かった。微妙なのはダンスで、森山未來にしろ、アオイヤマダ?にしろ、(特に森山の場合は短すぎたこともある)中途尾半端な感じになってしまった。

 大会運営にあたる方々は、運営に急な変更が加えられたり、感染予防のために神経を使う毎日、コロナに対する状況や考え方の違う国々からの選手たちを一律に規制するのは大変だったろう。本当のご苦労様でした。

 

 閉会式の最後に、大竹しのぶと児童合唱団が「星巡りの歌」を歌った。歌詞は「やまとことば」で(もちろんオリオンは違うが)良い歌だ。なんだか子供劇団の上演をみているようでほほえましかった。

 若い頃からこの歌詞を聴くと、頭の中でどうしても「赤い目だ魔の蠍」「広毛タワシの唾さ」と変換してしまう。これは筒井康隆の影響か北杜夫の影響か知らないが、どうしてもそうなってしまうのだ。(筒井康隆は「その時心は何かを→その時心罠に顔」出典記憶せず。北杜夫は「召し太鼓」→「飯太鼓」『どくとるマンボウ青春記』か)しかし「広毛タワシ」などというものが存在するのかも知らない。

 

全国高校総合文化祭和歌山大会「演劇部門」

 オリンピックの期間に高校演劇の全国大会があった。全国高校総合文化祭というので、今年は和歌山県での開催だった。上演に関しては観ていないので何も言えない。

 無観客なのだが、参加各校の部員達と関係者だけでも結構な人数になるはずだ。つまり、高校演劇に関わる者が、熱い共感と批評意識を持って見ているのである。スポーツでも同じだろうが、専門性の極みに迫る人たちが集まって見ているのだ。まさに演劇の競技会場である。

 さて、ここで何が競われているのか。当然、ルールがあるのだが、それは上演時間についてのものだけで(著作権については厳しくなっている。また場合によっては装置に防炎の規制がかかる)、内容・形態はもちろん、人数規模にも制限がない。喜劇悲劇、台詞劇パントマイムミュージカル、一杯飾り素舞台、一人芝居大人数、小劇場向け作品から大ホールを前提にした作品までありとあらゆる「演劇」が許容される。

 アングラの小さな小屋で演じる問題作、大掛かりな装置と照明の中で大迫力で演じる力作。これをどういう物差しで比較するのか。(これは新聞社などが主催する演劇賞についても思うことではある)

 結局のところ、「人間が演じる」というところが最低の共通部分だとすれば、そこが比較の原点になるだろうが、そこでも、肝心の評価の観点がまた千差万別で、皆が同じ感想を持つことは稀で、良いという人がいればダメだという人もいるので、いやはや。

 「人間が演じる」と言っても、評価すべきは「脚本」なのか「演出」なのか「役者の演技」なのかという問題もある。三者相俟っているのだが、何度も上演されている脚本だと、新たな演出(解釈)、新たな演技が求められるかも知れない。

 つまりはこの「新しい」ところが評価されるのだろうな。そして何が新しいかは、古いものを知らなければ分からない。既にそのテーマが取り上げられている優れた作品を知らなかったり、現在最先端の問題を扱っても解釈や手法が旧態依然だったりすると、そのへんを良く知っている人から見れば、「新しい」とはならないのかもしれない。

 逆に「最先端過ぎて観客に受け容れられない」という作品にはあまりお目に掛かったことがない。これを見出せる人、というのがまた稀なのである。まさに千里の馬と伯楽だ。

2021年5月から7月までの舞台鑑賞

 このところ鑑賞した舞台公演について触れていなかったので、まとめて書いてみたい。

 

5月22日(土)15:00『堀米ゆず子のバッハ』  東ソーアリーナ

 J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータより

          ソナタ第1番ト短調  パルティータ第1番ロ短調

          ソナタ第2番イ短調  パルティータ第2番ニ短調

 唯一人素舞台に立ち、全曲譜面無しで演奏された。素晴らしい演奏だった。

 

 

6月 5日(土)18:30『山形ワンコイン演劇W』ブロック②

                            山形市民会館小ホール

               演劇ユニット41×46「しりとり」

               劇団ジョゼ「ペロリンをこよなく愛する会総会」

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 ワンコイン演劇祭は「演劇プロジェクト全力演劇」が企画した演劇祭。アマチュアの劇団、グループが集まって、各自30分以内の短編を上演する。

 「しりとり」は男女二人芝居。しりとり部が大会に出るという。様々な種目のしりと りがあり、その技術を競うという。それだけなのだが、台詞のやり取りが上手で、最後の趣向が良く効いていて、よくできた台本だと思った。

 「ペロリン~」は男4人のコント芝居。ペロリンとは実在する山形県のマスコットキャラクターで、緑色の三角錐(山)の一面に目と口があり、舌を出している。この目と口が不二家のペコちゃんに似ている。話はペロリンを賞賛、崇拝する団体の入会式と総会の設定。やや無理押しの感じであった。「しりとり」に比べ、本が練れていない。

 

 

6月 6日(日)15:30『加藤登紀子 時には昔の話を

               さくらんぼの日コンサート2021 東ソーアリーナ

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 さすがプロ、というコンサート。歌に力があり、観客の心を揺り動かす。

 無二の親友という渡辺えりが客席にいた。

 

 

6月12日(土)14:00『鎌田實×小室等トーク&フォーク』 東ソーアリーナ

 小室等は、小室等だった。「死んだ男の残したものは」を熱唱。

 

 

7月31日(土)14:00『朗読・劇 野に咲く花は空を見ている』(88分)

          山形平和劇場第36回公演 市民の手作り舞台による平和へのアプローチ

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 間を1席ずつ空けて満席だった。戦前の鶴岡出身の言語学者、斎藤秀一(ひでかず)の生涯を朗読にした作品。一部演劇化してあった(台本を持たず演技)。エスペラントやローマ字を普及させようとして戦時中に逮捕された。

 このエスペラント語への傾斜や父親との対立などのエピソードから、井上ひさしの「イーハトーボの劇列車」を連想してしまった。あの中ではエスペラントの具体的説明があったなあ。

 

 全員マスクをしているためうまく朗読できるか心配な部分もあったが、マイクもあり大体は聞き取れた。ただ群読については、今一つそろわないので聞き取りにくかった。

 内容は、登場する人間の関係がよく飲み込めないうちに話が進んでゆくようであった。エピソードが断片的になるのは仕方が無いかもしれないが、台詞が一面的(紋切り型)なので役柄が深く印象的にならない感じだった。「朗読劇」ならば感情表現が必要だが、「朗読・劇」なので中途半端になっているように感じる。厳格な住職の父親は厳格に、特高の刑事は特高らしくなどよく演じている、とも、パターンに終始しているとも言えるので難しいところだ。主人公の内面の成長過程なども、もっと表現できたのではないかと思う。言語学者としての考察とか、ローマ字の授業とか、エスペラントでの会話とかを場面に入れると面白かったかも知れない。

 

 舞台使いについてだが、演者の配置などはここ何年か、ほぼ同じようである。参加希望者は全員舞台に上げる方針だから、登場する人数は30人と多くなる。その人数で上・下に分かれた配置では声の出所が散漫になりがちで、観客の集中も削がれると思う。

 舞台前面に散らすのではなく、中心だけを明るくして、演者は出番の無い時は後ろの暗闇に帰る。中心に寄せて(コロナだからできないか)、背景の装置も変えて(「緑の星=エスペラントの印」を頭上に吊って)、みんなマイクに向かってしゃべったらどうか。役が固定している演者は衣装を着けても良いと思う。

 

 以上、ごちゃごちゃ書きましたが、この疫病蔓延の時節、困難多い中、公演を実施された関係者の皆様の努力に敬意を表します。お疲れ様でした。

オリンピック観戦 フェンシング男子エペ団体

 オリンピックをテレビで観戦している。昨日はフェンシング、男子エペ団体戦に感動した。40年ほど前に高校の部活で顧問をしていたので、全くの素人だったけれど少しは知見がある。9年間関わって、後は演劇部に関わるようになり、遠ざかってしまった。

 当時、エペやサーブルは男子のみの種目だった。そしてサーブルには電気審判器は使われなかった。「突く」場合には剣先のポイントで作動するが、「切る」動作では方法がなかったのだろう。今ではサーブルも電気審判になっているはずだ。

 当時は、選手は背後にケーブルを着け、それをリール(巻取機)で常に張っているので、「猿回し」などと揶揄する人もいた。今は無線になり、動きの制約もなくなっている。古いリール(かまぼこ形)を使っていたので、よく故障して泣かされた。

 当時の電気審判は得点された方のランプが点灯する(減点法)ので、一般の人が見ると最初は戸惑うのだった。今では得点した方に点灯している。マスクの中が光るのも昔はなかった。昔は床屋の看板灯みたいに縦長で、色ランプが積み重なったものだった。

 ピスト(競技する台。ここから両足が出ると一本取られたことになる)は細かい金網が敷いてあり、電気回路がまわっていて、床を剣で突いても反応しないようになっている。エペは全身何処でも、足の裏でも、ほどけた靴紐の先でも、早く突いた方の勝ちである(同時の場合は両者の得点)。そこで、床を突いても反応しないようにしなければならないのだ。

 昨日の決勝などは、日本選手がすこぶる好調で、一瞬の相手の虚を突くのが目立った。まるでレッスンでもしているような、きれいなファンデブ-からトゥシュが決ったのには驚いた。(なぜか日本の剣道的な感覚のように感じた。)

 ただ接近してもつれると、ヨーロッパ選手の剣捌きに一日の長があるようだった。

 昔はソ連の教本の翻訳を見て、背中へのフォーク突きなどに驚いていたもので、ロシア、本場フランス(用語はすべて仏語)を破っての金メダルは予想外の驚きであり、うれしさである。選手、スタッフ、協会の皆さん、おめでとう!!

 しかしエペは、昔の高校生のイメージだと、間合いを取ってあまり動かない印象だったが、昨日はほとんどフルーレに近い動きに見えた。もしかしたら剣が軽量化されているのかも知れない。

 電気審判はあるが、最終的には人間の審判が判定する。「用意(エトブプレ)」、「開始(アレ)」、「止め(アルト)」の合図の他、得点の説明をしなければならない。特にフルーレでは攻撃権の有無が重要なので、ただ先に突いても、剣が一度払われて(パラード)いればダメである(攻撃権がなくなる)。凄い速さでこのやりとりがあるので、審判が見極め、説明して判定するのである。だから審判のミスもあるし、なかば恣意的な偏った傾向の判定もある。すると監督は本部の技術委員会に訴える。その結果、格上の審判が側に来て試合を見ることもあった。なにせ高校生の試合では大学の部員が審判をしていたので、なかなか気分屋の学生もいたのだ。

 

 一方、同時に行われていた女子サッカー決勝トーナメント1回戦(準々決勝)だが、グループリーグと同様に、見ていて勝てる気がしなかった(ほとんどエペを見ていたのでところどころしか見ていないが)。もちろん得点はしているのだが、攻めきる、勝ちきるという展望がない。相手に比べてあまりにも非力だった。

 こちらの競技にも素人なので、一観客としての勝手な感想に過ぎないので、間違っていたらごめんなさい。

 まず体格差。身長の低い選手ばかりを選んだのかと思うほどだった。まあ、女子高校サッカーはあまり普及しておらず、身長の高い子は伝統的なバレー、バスケ、ソフトなどの部に行ってしまうのかもしれない。一般に体の小さい子が多いように感じる。

 走力。とにかく走るのが遅い。歩幅が相手より無いんだから、回転を速くしないと。

 トラップ。受けたパスを足元に収められていない。自分のものにして次の動きにつなげることができず、跳ね返しては相手に取られている。これは基礎・基本でないのか?

 蹴ったボールにスピードが無い。ロングパスも活用できていない。ペナルティエリアに切れ込む勇気が無い。

 他にも守備の不徹底とか選手交代とか、いろいろ言われているようだが、選手全体に覇気を感じられなかった(特に後半)のが一番残念だった。選手個々には闘志を持っているのだろうが、チームとして一丸となって相手ゴールに向かっていたのかどうか。

 そうなるとこれは監督の責任である。

 

 自分の、素人顧問としてチームを指導しきれなかった過去を思い出しながら、テレビを見ていた。この歳でも、思い起こす悔いは鮮烈なのだ。