雑感2021年7月19日 1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮の土地制度の変遷)その15

 猛暑が続いている。皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。先週末16日を以て退職しました。今日、若干の後始末に職場に行き、完了。

 暑くて何にもしたくない。PCの部屋に冷房が無いのでどうしようもない。

 

 

「日本の敗戦・撤退とアメリカの軍政開始まで」への導入

 

 朝鮮の農村(両班の権威)について

 朝鮮の農村に於いて、なぜ両班の力があれほどに強かったのか。その答えは、前に朝鮮の農村 契、プマシ、トゥレ(続) - 晩鶯余録に引用した論文の中にあると思われる。

 儒教的上下関係が、長い時をかけて農民に定着し、村や部落の「契」などの組織に幾重にも重なっていき、その関係性の中で常に上位にある両班は、容易に(恣意的に)農民を罰することができたのだ。中央に官職を得られない両班も、地域においては特権的地位を占有できたのだ。

 村や部落に於いて続いていた「契」などが、日本統治下の農村振興運動などで変わっていき、農会、組合といった形態になっていった。ただし実態は(各村・部落内の人間関係)あまり変わらなかった。そんな中でも次第に農村を背負ってゆく階層は育っていたのだろうが、これもまだ良く分からない。

 

 赤色組合

 一方で総督府の統治の及ばない部分で共産主義の影響を受けた「赤色組合」も広がっていた。「邑・面」以下の「洞・里」には日本人もほとんどいなかった(都市部に集中していた)。この赤色組合についてはまだよく読んでいないので分からない。

 

 「建準」と「人共」

 いよいよ戦後の改革に入ってゆくが、1945年8月の敗戦直後に「建国準備委員会(建準)」が立ち上げられ、あっという間に全土に広がった。すぐにそれは「人民委員会」に変わり、「人民共和国(人共)」建国の気運が盛り上がる。

 各地の人民委員会は、どうしてこれほど急速に作り得たのか。

 これを構成する人材は、もちろん解放された共産党員であるが、内地から帰国した学

生や労働者も加わった。しかしそれだけで全土をカバーできるとも思えない。

 つまり、旧地主階級=両班らが、従来の村落組織を名称だけ模様替えして収まった所も多かったのではないか

 人民委員会はアメリカ軍の進駐が進むまでの期間に勢力を広げ、一部地域を治めていた。日本人財産を没収し、農産物は自由市場のように売買された。

 アメリカ軍政部が「人民委員会」を禁止するのは数ヶ月後である。

雑感 2021710 近況 朝鮮の土地制度 高校演劇

 結局、来週いっぱい務めることになった。週5日、2ヶ月半。一区切りである。6月で辞めたら後が大変だったろう。あまり詳しいことは書かない方が良いだろうからここまでにする。職場では一日中マスクをしていなければならないのがつらい。通勤が片道1時間というのも遠いし、朝が忙しいのがつらい。早起きになった分、早寝になるので夜にPCに向かう時間がない。疲れもあってさっさと寝るしかない。

 

 このところ、昼食のために職場近辺のそば屋を巡ったが、コロナ対策にも違いがあって、おおむね店が大規模になるほど厳しく、小さな店ではそうでもないようだった。手指消毒のアルコールすらない店もあった。

 

 ワクチン二回目接種後、二週間以上経つので抗体はできているだろう。ちなみに連れは二回接種しても強い副反応はなかった。やはり個人差が大きいのだろう。

 市内では陽性者ゼロの日が十日以上続いていたのだが、ここ数日で複数のクラスターが発生し、連日10名以上の陽性者が出ている。やっぱりパブとかから出るので、酒や接待を提供する飲食店が規制の対象になるのは仕方がないのだろう。

 

 

 「朝鮮の土地制度の変遷」についてだが、日本の朝鮮併合時代は大きく三期に分けられる。各期の主要な事業などを記す。

 (1)1910年の併合から1919年の三・一独立運動(万歳事件)まで

    武断政治 土地調査事業(土地測量、所有の明確化、地税の確立)

         優良米品種推奨、施肥量増大  1918年内地の米騒動

 (2)1920年から1930年(昭和恐慌)まで

    文化政治 産米増殖計画(途中変更あり) 

         土地改良、大規模灌漑、干拓、開墾

         朝鮮での消費量増大を見込む  米の過剰移出

 (3)1930年から1945年(敗戦)まで15年戦争期 

         農村振興運動 小作調停令

    戦時下の皇民化政策   工業化政策

 

 産米増殖計画は、朝鮮における人口の急増に対応して、食糧の確保、つまり米の増収を図るのが第一の目的だった。しかし、日本内地においても人口増と農村からの人口流出、都市における食生活の変化から米が不足し、米価騰貴を招く。投機的買い占めもあり、貧民は苦境から暴動を起こす。こうして内地への米移出を増やさなければならなくなる。結果、朝鮮では過剰な移出が行われ、朝鮮の米穀商が利益を得る。その利潤は株式投資に回され、会社・工場の新設という工業化の前段階を準備することになる。

 

 

 高校演劇の世界から離れて数年。ウェブで現在話題になっている高校演劇の作品について様々な情報を見るが、一方で過去の作品はどんどん忘れられてゆく。自分が30年間関わった中で、記憶に残る作品は多々あるが、現在の顧問や部員は知らない作品の方が多いだろう。高校生の知りうる高校演劇はごく短い期間の、というより同時代の作品しかない。(一方で、地方の部によっては台本探しで古いものしか読めない環境もある)今ではもう『もしイタ』を知らない演劇部員や顧問がいても不思議ではないのだ。

 演劇の持つ「同時代性」がそうさせるのだろう。その時高校生だった者が創り上げた舞台は彼らのものだ。思い出の中に残り、再演されるということはない。あってもそれは別物になる。(全国の演劇部が毎年のように取り上げ、上演されるスタンダードな作品もあるが、それは稀なことである)

 忘れられてゆく作品たちはどこにもアーカイブされることなく、直接関係した者の記憶の中だけに残り、やがて消えてゆくのだろう。それはスポーツでの無数の試合の記憶と同じなのだろうか。

 脚本家が作家性を持ち、作品を生かし続けたいと思う場合もあるだろう。この場合は「脚本」が残る。読むものがいれば、その中にこれを上演したいと思う者がいるかもしれないという期待は残る。脚本家は彼の「思い」が誰かに伝わり、受け継がれることを望んでいる。いつかどこかに必ず同じような思いを持つ人がいるはずなのだ…と。

 上演ビデオは生徒の個人情報が入っているので保存公開しにくいが、脚本ならできる。しかし脚本から上演を想定したり再現したりできる人が少ないのも事実だ。

 

 まだこれから高校演劇は続くだろう。だがいつか学校単位の部活動はなくなり、校外活動(地域文化活動)として残ることになるのだろう。それは今より一層、指導者の強い関与を必然にするだろう。役者もスタッフも専門性は高くなり、質的な向上が見られるだろう。その時に初めて、大人の演劇の世界と高校演劇の世界が連続する(したものと見なされる)のかも知れない。

雑感 20210627 新型コロナワクチン接種後の副反応を体験

 24日に二回目の接種を受けた。一回目は丁度三週間前で、その時はほとんど痛みを感じず、一週間後に接種部位が腫れた程度で終わった。

 が、二回目は、注射の痛みがずいぶん違うと思った。これは注射する人の違いによるのだろうな。注射針は細いので、血液凝固抑制の薬を飲んでいても出血はない。接種当日は口の中が乾くようで、なんとなく変な感じだった。夜は3時頃から1時間おきくらいに目が覚めて、トイレに行く。そのたびに水分補給した。朝、熱っぽいので計ると7度5分あった。副反応が出たと理解して、仕事先に電話して休みを取る。私傷病休暇になるらしい。

 昼前には8度まで上がって、さすがに体が辛い。食事は普通に食べられるし、味覚もある。ずっと寝ていて、夕方には朝方くらいの体温まで下がった。夜に埼玉県の友人から電話が来たが、具合が悪いので早々に切り上げさせてもらう。

 翌々日26日はほぼ普通の感じになった。平熱より5~6分高い。肩が腫れて熱く痛い。

 そして今朝は平熱になった。肩はまだ痛い。ブログが書けるくらいに快復した。

 接種したかかりつけ病院には行かず、解熱剤などは一切服用しなかった。

 

 ワクチンについては、ずいぶん否定論が横行しているようだ。重度の副反応が出た、あるいは死亡したという例も流布している。そのためか、副反応が怖くて受けられない人も多いのだろう。

 副反応の実態については、厚生労働省で2万人弱を対象に調査した結果が公開されている。

新型コロナワクチンの有効性・安全性についてについて|厚生労働省 (mhlw.go.jp)

 

 発熱については次のグラフがある。

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 これによれば、60歳代で7度5分以上の発熱は、男女差があるが、2割弱の人に起こる症状である。若いほど反応する人が多いのは免疫反応が強い所為なのだろう。

 自分の姉は70歳代だが自分と同じように発熱した。遺伝的に似た免疫反応を示しているのかも知れない。職場の隣席の方の父親は90歳くらいで、2回接種しても何も副反応がなかったそうなので、確かに年齢により、また個人差によって違うのだと納得する。

 

 報告された『接種後の死亡例』は、2月17日から6月13日までの接種回数23.245.041回中、277件である。100万回につき11.9件(0.00119%)で、イギリスの16件より少ない。時系列的には増加傾向があるが、高齢者、有基礎疾患者への接種が進んだせいであろうという。 

 なお、日本のコロナによる死亡率(死亡者数/検査陽性者数)は1.86%( 新型コロナウイルス 国内感染の状況 (toyokeizai.net)による)である。『接種後の死亡率』とは比較にならない高さであることが分かる。

 

 死亡例については以下のようである。

 

年齢別

 65歳以上 248例、65歳未満 29例

〈症状の概要に記載された死因等(括弧内は65歳未満(内数))〉
 心不全       37例( 3例 )
 出血性脳卒中    30例( 9例 )
 心肺停止      30例( 3例 )
 虚血性心疾患    28例( 4例 )
 肺炎(誤嚥性含む) 21例( 0例 )
 虚血性脳卒中    13例( 1例 )
 大動脈疾患     11例( 1例 )
 敗血症         9例( 0例 )
 窒息          8例( 0例 )
 その他 状態悪化、心障害、心臓死、心突然死、動脈血栓症、血小板減少関連疾患、自殺、脱水、溺死、肺胞出血、腎不全等

※1同一症例に複数の死因等の記載がある場合は、いずれも計上している。
※265歳未満の接種者数・接種回数の参考:医療従事者等の推定接種者数(6/13時点) 5,196,077人、推定接種回数 9,107,897回接種
※3系統的に死因等を計上するにあたり、今回資料より死因等の記載を、対応するMedDRAPTに再分類の上、計上した。
なお、マラスムスは老衰に変更して記載した。
※4上記は、死亡として報告された事例数の1%を超えた3例以上の死因等について記載し、状態悪化、心臓死等、具体的な疾患を想定できないものはその他とした。

 

 以上であるが、『接種後の死亡』と『接種による死亡』は意味が違うことはお分かりと思う。たとえば「誤嚥性肺炎」や「溺死」の原因がワクチン接種だとは言い難い。

 ワクチン接種がなくても同様の死因でなくなる人は相当数いるわけで、2019年に、65歳以上で心不全により亡くなった方は82.837人とある。

 しかし、心不全が起きるのを「早めた」という「解釈」はあり得るので、100%無関係とも言い難いところがあるのだろう。

 

 この副反応が、後年、妊娠や心臓に異状・後遺症を残すという言説が流布されているが、今現在その実例が報告されていないようだ。たしかに5年、10年後の結果を見れば納得、安心できるだろう。でも、それから接種しても、現在のパンデミックに対しては意味がない。

 今の日本では、医療崩壊が起きるような爆発的大流行は起きず、死亡者も少ないことを理由に、ワクチン接種を否定する人がいるが、この現状は多くの国民の努力によって維持されているのだということを忘れてはならないだろう。

 ワクチン接種が進まなければ、人流の制限、人数の制限が緩和されない。それでは経済も文化も萎縮する一方だ。会いたい人にも会えない。行きたいところにも行けない。

 接種するしないが個人の自由であるとしても、自分が感染し、家族に感染させ、濃厚接触者を多数出してしまう可能性は依然として有る。ワクチン接種によって感染の予防、発症の予防、重症化の予防がいくらかでもできるなら、接種すべきではないか。

 

 

 「医者」の肩書きで物言う人も多い(政府に対して直接提言する方もいる)が、呼吸器系の感染症を専門にする医者でも意見が異なる場合があるのだ。それなのに、専門外の医者がしたり顔に主張する話がにわかに信じられるだろうか。彼らは本当に統計的に正しい資料をもとにして話しているのだろうか。単純化した話(数値)は素人に「分かりやすい」。しかし、これは研究者というよりは似非宗教や集団勧誘のような立場に近いのではないかと感じてしまう場合もある。「医者」もさまざま、いろいろである。

『赤い繭』

 安部公房『赤い繭』、久しぶりに授業した。授業では比喩を解くことを中心にした。また主題に関していろいろな生徒の考えを聞いたが、否定もせず、自分の解釈も示したが、どれが正解と言うことではなく、いろいろあってよいということで終えた。

 

 この作品は、自分が高校生の時にも教科書で読んだ。その時に感じたことが今以て自分の感想としてある。感想というか解釈と言うべきか。

 赤はコミュニズムの赤かも知れないが、日の丸の赤と感じた。日の出ではなく没していく太陽。繭の中で時は止まり、沈みかけたままの夕陽が照らしている。

 繭を拾った男はアメリカで、日本を自分の(子供の)おもちゃにした。

 これが高校生の自分が抱いたイメージだ。

 

 1950年の日本はアメリカの占領下にあった。まだ平和条約が結ばれない、Ocupied Japan だった時期、日本がどうなっていくのか分からなかった時期、突然、東西冷戦が朝鮮半島で熱い戦争に転じ、日本は前線基地化していった。敗戦から5年、旧体制の解体が進み、社会主義革命にも似た大変革が行われて戦争協力者が追放されていたが、やがて冷戦がその変革を止め、方向転換し始めた。今度はレッドパージが行われ、アメリカ軍の下で日本の再軍備が許される。

 日本はアメリカの考え次第で(世界の政治情勢の変化によって)玩具のように翻弄された。

 

 『赤い繭』は自分の家を探し求めて流浪する前半と、自分の体をほどいて繭を作り、その中に安住?する後半とに分けられる。

 

 前半は、おそらく作者の満洲での敗戦後の体験が色濃く反映している。内地に比べ、朝鮮や満州は豊かで平和だったろう。ところが8月を境に状況は一変する。召集されて入営直前に敗戦。国家は瓦解し、日本人は何の保護も受けられずに家を追い出され、財産や命を奪われ、流浪することになる。医師だった父親は、チフスの大流行に対処するが、自分も感染して亡くなる。奉天で一冬を越し、二度目の冬を迎える頃引き揚げ船で内地に帰ってくる。

 ルンペン生活(今ならホームレス)の悲哀は、チャップリンの映画さながらだが、私有財産制に懐疑的な主張を(窓の「女」に対して)するのは、共産主義に傾いた影響かも知れない。棍棒を持った「彼」は権力の手先、警察官だろうが、後半とつなげてみると、太平洋戦争で日本帝国を懲罰したアメリカともとれる。

 「彼」は「おれ」を追い立てる。「おれ」の休める場所は刑務所だけである。「おれ」は「さまよえるユダヤ人」のごとく、自分には分からない何らかの罪(あるいは呪い)によって一方的に永遠の放浪という罰を受けている。

 

 後半は別のメタファーが用いられる。「おれ」のからだは解体し、なくなってゆく。しかしその体は糸になり、繭を作って「おれ」を包んでゆく。「おれ」は、ついに繭の中に安住できるのだが、繭の中にあるべき蛹がない。羽化して生まれ変わるべき自分がいないのだ。空虚となった日本。「新生日本」はどこから生れるのか? 没しかけて止まっている太陽。かろうじて残された天皇は人間となり、象徴となったが、何か大切なものが失われた。

 棍棒を持った「彼」は、後半で、線路とレールの間の繭を見て、それが「おれ」のなれの果てだと分かって(夕陽の色に染まっているから分かる)、休んでいることに腹を立てる。完全に放遂したつもりだったのに、しぶとく残っていやがる。だが、考え直してポケットに入れる。これも、このご時世には何かの役には立つだろう。

 

 今回使った教科書では、直後に三島由紀夫の『美神』が載せてある。教員用の指導資料を読んではいないが、ほぼ同年代の2人を対比させようという意識が見て取れる。それでまあ、二十歳前後での敗戦体験、天皇喪失体験を、当時の左右の立場から見たものとして対比的に授業しようと思った次第である。だが、これだと評価が面倒なので、試験問題は教科書傍用の課題集から出題すると言ってある。(しかしこの学習課題集というやつは本当に面白くない、くだらない設問ばかりであると感じる。現代文の授業が往々にしてつまらないといわれるのも当然かと思われる。)

 このあと『美神』の授業についても書くかも知れないがわからない。

 

 どんな授業案があるのかと、ネットをいろいろ見てみたが、自分の感じたようなことを書いているものはあまり見かけない。最後の「彼」についても様々な解釈があるようだ。

 いまだに50年前の高校生の解釈で通用する(ように思う)のは、この作品が普遍性を持っているからか、自分と作者との時代性が近い所為なのか(それでも20歳以上違うが、今の高校生は70歳くらい違うからもう完全に別時代)。

1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その14 

朝鮮の農村 契、プマシ、トゥレ(続)

 梁 愛舜「郷村社会の親族と近隣結合―契・プマシ・トゥレを中心に―(『立命館産業社会論集』35巻4号2000年)と「在日朝鮮人一世のコスモロジーと郷村社会―「儒教的家族」の信念体系と行動様式―(『立命館産業社会論集』35巻2号1999年)を読んだ。

 これは在日一世の体験した朝鮮農村の姿を探ったものである。彼らの先祖への祭祀(チェーサ、チェサ)には今の韓国には無い古い形が残っているだろうという。

 この中に「契」の実態が分かりやすく説明されているので、『 』で引用させていただく。

 

 【洞契】

 「邑、面」の下の「洞、里」は自然集落的な部落であるが、この洞が農民の帰属する地域共同体である。「洞契」には洞の全員が参加する。(その他の種々の契は身分毎に作られ、両班だけ、庶民だけの契と両班・庶民一緒の契があった。)

 年に一度、10月末とか12月頃に「洞会」という総会がある。契には財産があり、部落の共同祭祀を行うための経済的基盤になっている(この財産の中に契有の田畑があれば、土地調査事業の時には共同の所有でなく、個人の所有と記録されたか、面に移管されただろう。その収益は面から洞に還元されていたようだ。収益とは小作料である)。

 洞契には、古くは両班が出資し、奴者は出資しなかった。

 

 【契と身分制】 

 両班の契は「学契」「書院契」「詩契」「射亭契」「遊山契」「宗契」などがある。

 『庶民の契は洞里の範囲のものがほとんどであるのに比べて、両班だけの契は数個の洞里、面と郡にまたがり、交流範囲の広さをものがたっている。』

 

 『庶民だけの契は、主に生活を補充する相互扶助の契が多く、さきに述べたように冠婚葬祭を扶助するものがほとんどである。』『生産活動を助ける目的の契も多く組織された。苗種の準備と農事の改良を目的にする「農桑契」・「土地契」、牛を購入する「牛契」、蚕の共同飼育をする「養蚕契」、精米および雑穀の調整をおこなう「水砧契」など、郷村社会の生産活動を保障する重要な役割を果たしていた。』

 これらの契については、地方金融組合の活動と重複するものがあるので、発生時期を確認したいが、次の記述が参考になる。

 『1920年代以降、日本人官吏が地方行政事務に参入することによって、契は「組合」と名称変更するものが出現し、その運営も変化した。反対に「殖産契」などのように、総督府の指揮による組合が「契」と名乗るばあいもあった。とくに1930年代から開始された「農村振興運動」によって、契は日本人が直接運営する組合などに吸収・設立替えされた。』

 

 両班と庶民が一緒の契(洞契や洞祭契、禁松契、社契など)は、同じ洞里の住民として参加するものであり、洞里の公共事業を主な目的にする。灌漑、堤防、井戸、橋などの補修、大型農具の購入などである。『そして、婚喪契のように近隣同士の吉凶の大事につき合う契である。婚喪契はその費用を助けあうとともに、労力も提供しあった。両班は使用人、モス(作男)を送った。』

 

 【契内部の儒教的力関係】 

 『両班の契も庶民の契も在野儒学者らの積極的な勧奨のもとで運営された。残されている「契帖」は、識字者つまり両班階級の有識者が直接関わっていたことを示している。儒教の仁愛思想と契の機能は矛盾するものではなく、むしろ契は物財をもって儒教精神の現実的な側面を支えていたのである。』

 『契の持つ集団的拘束性は儒教的秩序を補強する役割を果たしていた。』『両班であれ庶民であれ契に参加することは契組織によって一定の制約を受けることを意味する。』『庶民と両班が一緒の契は、契長や有司は両班身分のものであり庶民だけの契は年長者のなかの有力者がその任にあたっていた。契の運営自体は平等互恵であっても、契員たちの相互関係には厳然と身分、力関係があり、上下区分、長幼有序の礼が守られることが前提であった。』

 『洞里の全員が加入する洞契はとくにつよい統制力をもっていた。洞契は、賞罰規約までもうけており、洞民の「風教維持」すなわち「三綱五倫」の儒教倫理遵守に大きな役割を果たしていた。それには在郷両班や有力者、年長者の権威が幅をきかせていた。洞契もまた儒教的枠組みに固く組み込まれた組織だったのである。しかも洞契は行政組織から独立した自立的な組織であったからこそ、一層つよい影響力をもって洞民に働いていたのである。』

 

  【郷約と両班儒林の郷村支配】

 『郷約は洞民相互の倫理条目を定め、洞民を褒賞罰則するなど行政機関を「代行」するような権限を持っていた。郷約は郷村社会に儒教的秩序を確立しようとした儒林たち中心の組織である。』

 『在郷儒林は中央から脱落したか、科挙及第を果たすため学問に邁進するもの、または中央政界を嫌って仕官を拒んだ儒学者である。彼らは中央で果たせなかった徳治主義を郷村において実行し、「理想郷」を実現しようとしたのである。

 彼らの活動母体は郷約であった。郷約は行政機構と離れた自主的な組織である。当初は両班儒林たちだけの組織であったが、庶民にも道徳的実践を強いるため庶民を巻き込んだ組織になっていったのである。そして郷約をとおして両班儒林は庶民を直接統率・監督した。』

 『郷約は郷村の美風良俗・儒教的倫理観の育成に貢献したのも事実であるが、本質的には両班の支配の固定化と正当化を図ったものであった。』

 『そのため郷約に洞里民全員を加入させて郷約の実行を奨励し、違反者には重罰を加えて挑んだのである。罰には身分による違いがあり庶民には体罰をあたえ、両班には末席に座らせる満座面責を科す程度であった。』

 『郷約は郷村社会の倫理観の高揚と儀礼の普及を推進したが、もう一方では郷村の庶民に覆い被せられた桎梏でもあった。この郷約の下に各種の契があった。』

 『郷約のメンバーが契のメンバーでもあった。郷約は「歯徳学行」の選ばれた者たちの組織であり、契はだれでもが加入できる組織である。洞里全体が加入する洞契は郷約の意志を積極的に取り入れた 郷約にもっとも近い契である。洞契は倫理条目を規約に掲げながら、洞里の公共事業のため備蓄をおこなっていたのである。』

 『そもそも郷約は所詮観念的結合体に過ぎない。現実的社会生活のなかで儒教倫理を実践する舞台になるのは、生産活動の場面である。郷約は契を足場にすることによって、ほとんど読み書きのできない、経典を手にしたこともない庶民に儒教倫理を体得させることができたのである。』

 『洞民の道徳的誘導体としての郷約、その下にある各種と労働交換のプマシトゥレ、そして生産活動と生活空間を浄化する洞祭、これらの横軸の機能集団が、郷村社会に割拠する縦型の親族集団相互の結合を可能にしていたのである。』

雑感 2021年6月12日

 通勤も慣れたが、片道ほぼ1時間かかる。橋の入り口とか高速からの合流地点など、渋滞する区間がある。最近は早寝早起きになっているが、朝はまとまってPCに向かうほどの余裕がないのでブログもさっぱり書けない。

 授業は、1年生は「羅生門」をやっている。ずいぶん久しぶりにやるので、どういうふうにしていたのか忘れた。とにかく読みながら疑問点を上げていき発問する。「なんで門の上の楼に裸の死骸と着物を着た死骸があるんだ?」「裸で死んだのか?」これに対して「盗人が取っていった」という答えがあると、最後の方で老婆の着物を取ることが分かりやすいだろう。が、意外に出てこない。平安時代に金目のものといったら着物、布くらいなのだから盗人はすなわち「ひはぎ」である。比較的きれいな着物からはがされていって、後にはボロボロな汚れたものが残っているのだろう(あるいは「ひはぎ」を目的に殺されたという遺体もあるかもしれない)。もう1人の国語科教員がたまたまこの授業を見に来た(今は校内で相互に参観する期間を設けているのだ)。「おもしろかった」という感想はどういうことだろうか。

 3年生は梶井の「檸檬」をやめて、安部公房「赤い繭」と三島由紀夫「美神」をやることにした。この教科書は、ほぼ同年代の2人を並べる面白い編集で、さっと読んでいろいろ比較対照できそうだ。「赤い繭」も遙か昔にやっただけなので、逆に新鮮な感じがする。最後に繭を拾った「彼」が誰なのか。流れでは「棍棒を持った彼」と同一人物というのが自然に思える。が、それでも引っかかる部分がいろいろある。「彼」は「おれ」だという説まであるようだがどうだろう。

 期末テストを作成するまでは居る予定だが、テスト後が未定?である。採点やら課題点検やらは次の人に頼むのかな?

 自分より10才くらい上の方も講師でいらしているので、非常勤ならやれそうだが、常勤で朝から夕方までは、なかなかきつい。

 

 1週間前に接種した肩が、いまごろになって若干腫れ気味で痛くなったのが気になる。1週間で副反応はほぼ無くなるはずなのに、こういう事例があるのだろうか?

まあ気にしないけど。

 山形市は新規感染者がゼロで推移していて、収束の気配が濃い。ビッグウイングでの大規模接種や職場単位の接種(天童温泉組合とか)も計画されている。飲食店営業者や教員への優先的接種が予定されている。これまでクラスターの出た部分に手当しようということだ。

 県高校総体聖火リレーも行われた。後者は、旧県庁前など結構な人出のようだったがそれが感染につながったことはないようだ。

雑感 2021年6月5日 ワクチン接種 1945年8月15日以降の韓国における農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その13 朝鮮の農村について、「契」「プマシ」「ツレ」

 3日に新型コロナのワクチンを接種した。かかりつけの病院でLINEで予約したのだ。予約制なので待つこともなく、流れ作業であっという間に終了。15分間様子を見て、なんともなければ帰っていいとのこと。注射した肩が若干痛い。打撲痛のような感じ。だが腕が上がらないとかは無い。

 2回目は3週間後に指定される。勤務は職専免となるようだ。2回目の方が副反応が強く出るらしいが、これでもしもの重症化が防げるなら我慢しなければなるまい。

 

朝鮮半島における土地制度の変遷 その13

 

 朝鮮の農村について 「契」「プマシ」「ツレ」

 日本統治下において、朝鮮の農村がいかに変化したか。この問題は研究者によって切り口や評価が様々であり、統一的に見ることがはなはだ困難である。研究者の視点が偏っていると思われる場合も多く、最初から結論(植民地圧政・収奪論)ありきのようなものも多く見られる。また時代的、地域的な変化、対象とする村落の性格などが大きく違っているのに、それを一般化して論じるから、それぞれの研究成果を俯瞰的に見ることを妨げているように感じる。

 

 さて総督府の行政組織としては「邑(町)」の下の「面(村)」が末端だったが、「洞」や「里」(部落)という単位が最末端にあった。面長や区長の下にこれらの部落がまとめられたようだが、洞里には自治組織的なものがあった。「」と呼ばれるもので、契は高麗末期から存在したようだが、それらは初めは貢租に対する共同負担から始まり、冠婚葬祭の扶助などを主たる目的にした素朴なものであったようだ。日本の「無尽」や「頼母子講」に似たもので、構成員が平等に金銭穀物などを出資することによって成立していた(しかし、地主から自小作、小作、単純農業労働者までが平等に負担するといった状況は想像しがたい)。細かな成文化された規則もなかった。契の代表者である「契長」は互選で、資産・信望ある者が選ばれたが、結局は面長が兼ねる場合もあった。これは日本の名主(庄屋)に似ているかもしれない。

 書堂契などはその就学率からみて、広く農民に行われたとは思えない。

 時代が下ると、他にも様々な目的のための契がつくられるようになった。概して半島南部の京畿道や忠清道全羅道などでは事業のためなど多様であった。慶尚道などでは日本の影響が濃く、細かな規則を持つようになったようだ。養鶏などの副業のための契は明らかに日本の影響であろう。地域集団でなく同業者集団での契もあり、これは同業組合的な意味合いを持っていただろう。

 総督府は府の事業との兼ね合いから、これらを整理したり、官製の洞契を作ったりした(地域による)ようだ。明治40年設立の地方金融組合は併合前から、従来の「殖利契」や「貯金契」では不十分だった農村の金融に携わり、農民の負債からの脱却を目指した。朝鮮では従来高利貸しが有力な職業で、(日本人もこれに倣って金貸しを行なう者が多かったのだという)当時の農家の生産力では負債は逃れがたく、永続的に農民を苦しめた。これを金融組合は副業収入(勤勉化)によって打破しようとした。

 これらの変化をもって地域共同体の破壊という結論に結びつけるのは無理があると思われる。ましてやそれが主目的だったという思考は偏っていないか。

 

 「契」が金銭など物質的財産の出資によるものなのに対して、労役の出資によって成立していたのが「プマシ」や「ツレ(ドゥレ)」である。

 プマシは比較的少人数(少数戸)によって相互に相手の家の屋根葺きなどを手伝う(朝鮮では毎年のように葺き替えた)もので、該当者の家から昼食が出たりする。信頼できる者同士で行なわれたものだろう。

 ツレは部落(洞)、村落全体で半ば義務的に行われる田植え・草刈り・収穫などの共同作業である。農旗(「農者天下之大本」「○里農旗」)農楽とともに組織的に行われる。この時、地主(自作農)の田畑に集中的に労働者が集まるが、地主は食事、酒などを振る舞う。作業後の宴会が労働への還元、報酬のようにもなっている。牧歌的な風景にも見える。

 (なお、このプマシについて「両班は除いて、純粋に農民たちによって作られた作業集団」という記述が見られるが、「若者主体で」自主的な弱者優先の組織であり、その効率と熱気には「両班も下馬して敬意を表」した、とあるのはいささか空想的ではないだろうか。)

 自分の耕作地を持たない「雇傭」もここでは報酬にありつける。さらに雇傭は農閑期に生活費を借り、農繁期に労働を以て返すという形をとるようになる。さらに雇傭たちは「雇只(コジ)」という組織に加わり(積極的にかどうか分からないが)、定期的に仕事を請け負うようになったようだ。

 朝鮮では人口の急激な増加により、農地から人があぶれた。彼らに耕作地を与えるとしたら農地を細分化するしかなく、それは零細貧窮小作農の増加ということにしかならない。移住農民として国外に出るか、工場労働者になるしかないが、全く工業化の余地が無かった社会でどうしたら良いのか。日本は内地からの巨額の資本注入で工業化の基盤を作り出した。ダム、水力発電所、窒素肥料工場などのインフラはやがて民間の事業者に払下げられた。こうして次第に軽工業(繊維関係など)へと発展してゆけば多くの労働力が吸収できるようになっただろう。

 

 こうした経緯を考えてみるが、疑問は多い。

 一つには、地主-小作関係における中間搾取者「舎音」と、この自治組織的「契」や「プマシ」「ツレ」との関係がいかなる様相を持つのかが分からない。不在地主の代わりに舎音が小作農から搾取する。それを村落共同体、里長・契長はどう見ていて、どう対処したのかしなかったのか。村落全体が不在地主の所有地で、そもそも自治的共同体が存在しなかったというような地域(があればそこ)に限られたことだったのか。しかし分布を見れば、舎音の多い地域はすなわち契の多い地域となっているので、ある意味「共存」していたのには違いなかろう。

 在村の両班を中心とした村落では、舎音も横暴でなく、比較的平和に生活できたのであろうか。これが村によっては土地調査事業以降(に限るわけではないが)、両班の没落などで崩れたという側面はあるだろう。舎音は1930年代にも残っていた。1934年宇垣一成総督下で「朝鮮農地令」によって舎音は届出制になったが、根絶するためのものではなかった。

 また、日本統治下でも、伝統的な貢租、冠婚葬祭目的以外でも新しく事業契が作られているのであって、大正15年に調査したものでは、契の創設時期が併合後であるものも多い。日本統治下において若干その性質を変えながらも、地域共同体のまとまりは継続されていったと見なせるのではないか。

 

 大正15年頃の調査では、全道の契の数19,067、加入者814,138人とある。当時の農家戸数をおおよそ280万戸として、単純に1戸1人の加入とすれば加入率は約29%である。自作農を除外して自小作・小作に限って217万戸とすると、1戸1人で加入率は37.5%である。1人が複数の契に加入する場合もあったので、すべての農家が契に加入していたわけではない。これは平均すればのことで、一村の中で加入非加入の者がいたというより、契の数に地域的な差があったためであろう。京畿道、全羅南道、江原道などは契が多く濃密で、咸興北道、忠清北道慶尚南道などでは少なく粗であった。つまり、京畿道など一部の道の様子から全道を推し量ることはできないということだ。

【追記10行】

 水利契の例がある。1925年には行政の指導下で「水利組合」が設立されたが、「水利契」を存続させた例である。全羅北道任實郡任實邑のk里では水利組合に反発し、水利契を維持した。この水利契には「里の有志8人が契員として参加し、各マウルに1人ずつ管理者を置いて貯水池を管理した。」k里は1960年に、2マウル、140世帯、700人の人口であった。この中で8人(戸)だけが契員であり、それが「有志」であった。戦前には40%が小作だったというから、60%の自作(自小作)農の中でも1割くらいしか契に加入していないことになる。これは一部地主のみが契に加入し、小作・自小作はその下で水を使用していたと考えられる。つまり水利契の費用負担は小作料の中に含まれていたのだろう。(引用は、嚴智凡・柳村俊介・蘇淳烈「韓国における農村社会の再生と農業法人の展開条件」『農業経済研究』88巻4号2017 から)

 

 以上は主として、朝鮮総督府嘱託善生永助の「朝鮮の契」(『調査資料第十七輯』1926)と、戦前昭和10年代後半に実地調査した鈴木栄太郎の「朝鮮の契とプマシ」(『民俗学研究』1963)、山崎知昭「日本統治時代の朝鮮農村農民改革」(振学出版2015)によった。