広毛タワシの唾さ オリンピック 高校演劇全国大会

オリンピックが終わって高校野球が始まった

 オリンピックは多くの競技でワクワクさせてもらった。疫病による逼塞と酷暑続きの中で、良い気鬱晴らしになった。

 選手の方々(コーチ、チームスタッフ含め)は長い期間、厳しい練習を重ねて来られたわけで、その成果を存分に発揮できた方も、惜しくも予想外の結果に終わった方も、本当にお疲れ様でした。見ている方は、素人のくせにああだこうだと文句を言うわけですが、もちろん期待の裏返しということで、ご勘弁願いたい。

 開会式、閉会式については、「長い」と感じた。前の東京オリンピックの時にはこんなだっけか? ショーアップされてエンターテインメントのようになってきたのは最近だろう。北京とかは、凄い人数で圧倒的なパフォーマンスだった。リオデジャネイロは日本のプレゼンテーション?以外はあまり覚えていないなあ。

 世間ではこの演出についてさまざまないきさつや評価が飛び交っているようだ。素人でもあれこれ代案が出せるというのは、「練れていない」ということではないのか。「簡素化した」にしても、もう少しなんとかなったんじゃないか、と多くの人が思ってしまった。一年間の延期によってお金(ギャランティー)が続かなくなったのか? 予定がとれなくなっていたのか? 日本にはもっと凄い人たちがいっぱいいるだろうに、人選が一番の問題だったのか?

 閉会式を見ていて思ったのは、身体的パフォーマンスの場面では、オリンピック選手が非情に高度な演技を見せてくれた直後なので、ちょっとそこらの大道芸人程度にしか見えなかった。サッカーのリフティングなんて…。その点、歌唱は競技外なので、プロの歌い上げるものは素晴らしいと感じられた。宝塚歌劇団の国歌や男性ソプラノのオリンピック賛歌は良かった。微妙なのはダンスで、森山未來にしろ、アオイヤマダ?にしろ、(特に森山の場合は短すぎたこともある)中途尾半端な感じになってしまった。

 大会運営にあたる方々は、運営に急な変更が加えられたり、感染予防のために神経を使う毎日、コロナに対する状況や考え方の違う国々からの選手たちを一律に規制するのは大変だったろう。本当のご苦労様でした。

 

 閉会式の最後に、大竹しのぶと児童合唱団が「星巡りの歌」を歌った。歌詞は「やまとことば」で(もちろんオリオンは違うが)良い歌だ。なんだか子供劇団の上演をみているようでほほえましかった。

 若い頃からこの歌詞を聴くと、頭の中でどうしても「赤い目だ魔の蠍」「広毛タワシの唾さ」と変換してしまう。これは筒井康隆の影響か北杜夫の影響か知らないが、どうしてもそうなってしまうのだ。(筒井康隆は「その時心は何かを→その時心罠に顔」出典記憶せず。北杜夫は「召し太鼓」→「飯太鼓」『どくとるマンボウ青春記』か)しかし「広毛タワシ」などというものが存在するのかも知らない。

 

全国高校総合文化祭和歌山大会「演劇部門」

 オリンピックの期間に高校演劇の全国大会があった。全国高校総合文化祭というので、今年は和歌山県での開催だった。上演に関しては観ていないので何も言えない。

 無観客なのだが、参加各校の部員達と関係者だけでも結構な人数になるはずだ。つまり、高校演劇に関わる者が、熱い共感と批評意識を持って見ているのである。スポーツでも同じだろうが、専門性の極みに迫る人たちが集まって見ているのだ。まさに演劇の競技会場である。

 さて、ここで何が競われているのか。当然、ルールがあるのだが、それは上演時間についてのものだけで(著作権については厳しくなっている。また場合によっては装置に防炎の規制がかかる)、内容・形態はもちろん、人数規模にも制限がない。喜劇悲劇、台詞劇パントマイムミュージカル、一杯飾り素舞台、一人芝居大人数、小劇場向け作品から大ホールを前提にした作品までありとあらゆる「演劇」が許容される。

 アングラの小さな小屋で演じる問題作、大掛かりな装置と照明の中で大迫力で演じる力作。これをどういう物差しで比較するのか。(これは新聞社などが主催する演劇賞についても思うことではある)

 結局のところ、「人間が演じる」というところが最低の共通部分だとすれば、そこが比較の原点になるだろうが、そこでも、肝心の評価の観点がまた千差万別で、皆が同じ感想を持つことは稀で、良いという人がいればダメだという人もいるので、いやはや。

 「人間が演じる」と言っても、評価すべきは「脚本」なのか「演出」なのか「役者の演技」なのかという問題もある。三者相俟っているのだが、何度も上演されている脚本だと、新たな演出(解釈)、新たな演技が求められるかも知れない。

 つまりはこの「新しい」ところが評価されるのだろうな。そして何が新しいかは、古いものを知らなければ分からない。既にそのテーマが取り上げられている優れた作品を知らなかったり、現在最先端の問題を扱っても解釈や手法が旧態依然だったりすると、そのへんを良く知っている人から見れば、「新しい」とはならないのかもしれない。

 逆に「最先端過ぎて観客に受け容れられない」という作品にはあまりお目に掛かったことがない。これを見出せる人、というのがまた稀なのである。まさに千里の馬と伯楽だ。