今日は村山最北地区大会を観に行くぞ

 昨日から延長部活。7時完全下校。通し(5時~6時)のダメ出しが延々と続いて終了時間が迫る。台詞を飛ばしたなどの指摘とその言い訳などは助舞監がチェックすればいいのではないか、演出がいちいち言わなくても。それよりも演技、動き、内面化を進めてほしいと思うのだが。
 今日から代休を含めて3連休だが、部活は毎日朝8時からある。顧問は今日午後から村山市民会館にでかけて、村山最北地区大会を観劇する予定(さすがに明日も行くわけにはいかないだろう)。今日の上演校は、新南・山辺・新北さんである。
 
 
 顧問の書いた脚本を演じるのと、生徒たちが作り上げた脚本を演じるのとでは何がちがうのか。あるいはちがわないのか。生徒創作でも、一人の生徒が書いた本を他の生徒たちがあれこれ検討して作っていくのと、みんなでエチュードを重ねて本音を出し合って作っていくのとではまたちがうのだろう(その間に顧問の指導が入るか入らないかのちがいもある)。
 あるテーマでエチュードを重ねていき、作品に仕上げていくというやり方には、何が出てくるか分からない面白さとか、高校生の考え方感じ方が直接出てくるので、生々しいというか、生きた高校生がより直接に表現できるという可能性があるだろう(顧問の指導がなければ脚本にまでたどりつくのは難しいのではないかとは思うが)。
 それでは顧問から与えられた台本を顧問の演出で演じると、「演じさせられている」という感じになるだろうか? 演じている生徒の本当の姿は表現されないだろうか? 高校生が、高校生のかかえるものを高校生の感じ方で創作・表現することが高校演劇の本道なのか。
 既成台本(プロの脚本家や顧問の創作)と生徒創作の台本を別枠で考えるべきなのか。そして後者の方が「正統な」高校演劇の姿なのか。顧問創作で上位大会常連校になっているのはおかしいのか。
 
 問題は、演じる生徒の(顧問は絶対に演じない)理解の深さだろう。何かを読んで感動する、何かの事実に触れて心動かされる、その時の高校生の姿が表れていれば同じ事であって、ちがいはないのではないか。顧問創作であっても、生徒の共感と理解の上で演じているのであれば、それはまぎれもなく高校演劇と呼べる。理解―共感―表現の過程には生徒の大きな努力が必要であろうが。
 しかしよく心しないと、顧問の単なるひとりよがりになってしまう危険性は常に有る。くわばらくわばら。
 
 
 
 本当に言いたいのはこういうことだ。
 エチュードから生まれる作品には、ある強固な(作者という)、作品世界を支配する一つの視点がないのではないか。創作という営為は、チームでやる作業に還元できるのか。
 つまりエチュードからの創作は作家性を持ち得るのか。
 いや高校演劇の脚本に作家性など不要で、高校生の今の生の姿が見えることこそが最優先だということなのか。
 高校生が演じて、ああ自分たちの言いたいこと表現したいことを十分に出せた、でいいのか。上演を観た観客が、高校生云々でない普遍的な深い感動を受けることを追求してはいけないのか(もちろん両者は矛盾なく共存できるだろうが)。