劇団少女標本 『静物画』

 4月20日(日) 15:10~17:08
 第1回POP演劇祭 昨日より人を好きになった。
 福島演劇鑑賞会の10代20代で結成された「POP」 今春、POPメンバーが所属する三劇団が、春風とともに三つの舞台をお届けします
 
 といううたい文句で始まった演劇祭。演劇鑑賞会の青年部?がこういう企画を実行するということがすでに驚きである。山形の鑑賞会は高齢化しているので。
 
 福島駅東口のすぐ南側、NHKの隣にある「こむこむ」という施設の「わいわいホール」で開催された。舞台間口は6間ほど、キャパは250席くらいかと見えた。200人は入っていただろうか。1階席が舞台より低くなっており、客席も遠くなくて見やすい。ただ、舞台の奥行きが足りない感じもある。声はよく通るようだった。3劇団3本の作品が上演されたが、お目当ては3本目だけ。2本目。『椅子語り』作、清野和也 が押して最後の場面を演じている
 
 うちのOGが作った劇団「深海魚」のメンバーが大部分入って「少女標本」という劇団を作り、このPOP演劇祭に出演した。福島大学演劇研究会、福島南高校などの協力を得ている混成メンバーである。舞台美術のリンゴの木は福島大学美術研究会が作ってくださったとのこと。
 多くの人たちのお手伝いをいただいて2時間の上演が出来た。ありがたいことである。
 混成メンバーで地域もバラバラ。稽古時間を確保すること自体が難しかったろうがよくがんばっていた。
 
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 今年卒業したHYとKRが来ていて、上演後少し話した。彼女らは高校1年生の時にこの芝居に関わった照明と装置だった。2人とも学生になっても演劇をやるということだった。
 会場内には、山形の「めざましどけい」などの人が来ており、中には当時のうちの上演を観た人もいるようだった。
 
 
 さて、感想と少し考えたことを書かせてもらおう。関係者なので辛くなります。
 3年前、高校2年生でこの作品に関わった人たちが中心になって作った舞台だ。当時の記憶はまだ残っているだろう。演出も当時に倣っていた部分は多い。しかし、もちろん独自の演出も入っている。
 舞台は、基本的には机と椅子が5脚あるだけで、背景に大きなリンゴの木の絵が吊ってある、というのは当時と同じだ。
 実は今朝、当時のビデオを見てしまった。3年前の上演時間は1時間42分だった。今回はほぼ2時間。今回の方が台詞は速かった(早口すぎた部分もある)にもかかわらず、上演時間が長いのはなぜか? ここには大切な問題があるような気がする。
 
 舞台設備への習熟度。毎年定期公演で使っていれば、次第にそのホールの設備や広さなどの特性を覚えてくる。今回、どれくらい会場の下見ができたのか、図面等で十分に把握できていたのか。中央公民館のほぼ8間四方の舞台で奥行きを使っていたのと、わいわいホールの奥行きの浅い舞台では同じ舞台美術では無理が出ていたのではないか。リンゴの木への照明が、出入りする役者に当たってしまっていた。あるいは木の陰にいる人の影がホリゾントに映っていた。上から当てるだけでは不足だったか。
 地明かりが生なのだろう。床も黄色っぽくて、全体に「水槽の中」のような雰囲気にならなかった。以前は灰色の地がすりを敷いて♯64かなんかを入れたように思う。ホリゾントも青系が弱くて、早朝の感じが薄かった。
 後半は夕方から夜なので、夕焼けの赤から次第に暗くなって行くのを表すのが難しかったか。前明かりが弱くて表情が見えづらくなっていった。
 木の裏に平台で通路を作っていたが、足音が大きくなってしまうので、いらなかったのではないか。その前に紙?が敷いてあるのもどうだったか。
 リンゴの木はよく描いてあるが、緑色が濃いので3年前当時とはだいぶ雰囲気が違った。 前述したように、吊り物が比較的手前になるので、木の陰から出入りする幽霊たちが近くなる。そのせいもあって、前景の現実と交流させたくなるのだろう。客席から登場して魚子と手をつないだりもする。
 
 (下の写真は「少女標本」さんのツイッターから拝借しました。ラストの花が舞い落ちる場面ですね)
 
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 ラストシーンの聖歌隊は6人の方に登場して生で歌っていただいていた。舞台が狭いのでその人数でも構わないと思うが、歌については、その前に音響で何度も合唱を入れているので、印象が弱くなってしまったきらいはある。音量を抑えてくれればよかったのだが。
 SEの音量は全体に大きく、せっかくの詩的台詞を潰してしまっていて残念だった。バイオリンの音色など遠くから漂ってくる感じで良いのに。これで観客は相当にストレスを感じただろう。リハーサルでのレベル合わせが十分にできなかったのか。高校演劇の大会でよく言われることだが、音響や照明は演技を手助けするのが仕事であって、あまり出しゃばってはいけない。風の音、カーテンを引く音なども説明的になってしまっては逆効果だろう。
 
 
 
 
 
 
 (以下、写真は3年前の上演)
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 (枝が左に1本、右に4本あるのは、魚子と他の4人を暗示する…こじつけだが)
 
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 3年前の上演後の部長の挨拶。「今回こういう大震災があった中で、それでも私たちはいつも通りに部活が出来たっていうのがすごい幸せなことなんだっていうふうに思って、みんなで一生懸命練習してきました。その成果を今日、皆さんにお見せすることが出来て、本当に良かったと思います。」
 あの震災直後の緊張感が舞台にも色濃く反映していたのだろう。練習中にも、他県では被災した部員や亡くなった部員がいるのだと話して聞かせた覚えがある。
 
 必要なのはこういう緊張感というか集中度なのだろう。密度と言っても良いし、持続した緊張感とも言える。作品の緊密な流れである。無駄な時間(間、動き)が夾雑物となって、この流れを妨げるのだろう。そこを切り詰めて純粋にしていく作業が、この作品ではもっとなされるべきだったのだろうと思う。
 
 純粋さ(初々しさ)という点から言えば、高校生が高校生を演じるのと成人が高校生を演じるのとでは随分違うものだ、と感じた。同じ人が同じ役を演じているのに、やはり成長しているんだなあ。
 
 
 今日も部活では稽古があったが、副顧問のM戸先生にお任せしてしまった。