小さいおうち

 直木賞受賞作、中島京子『小さいおうち』を読む。
 山形市近郊の農村で小学校まで育ったタキが、女中勤めをしに上京する。それが昭和5年(1930年)だと書いてある。タキは大正7年(1918年)生まれのようである。終戦時27歳。
 自分の亡くなった母親の人生に重なるような部分があって、興味深く読んだ。タキや母のような人は当時たくさんいたのだろうとは思うが。
 自分の母親は大正9年山形市内の鋳物業の家に生まれた。結構な資産家で、柱時計も電話も町では最も早く持ったのだそうだ。長女だった母は乳母日傘で蝶よ花よと育てられたらしい。だが小学校を終える頃には家業が傾き、大きな屋敷も工場も人手に渡り、高等女学校に進む気でいた母も働かなければならなくなった。進学できなかったことがとても悲しかったと言っていた。何年からかは良く分からないが、東京で女中さんをすることになった。阿部次郎の兄弟の家などにいたこともあると聞いたことがあるが正確には分からない。お嬢さん育ちが急に女中勤めだから、ずいぶん苦労したことだろう。戦争で食糧事情も厳しくなると帰形して、山寺で疎開児童の世話をしていたということだ。この辺もタキに似ている。
 若かった母は東京でどんな暮らしをしていたのだろうか。当時も、つとめた家によってずいぶん待遇が違ったらしい。下女はしためのような扱いをするところから、家族のように親しくしてくれるところまでいろいろだったようだ。クリスチャンの方の家は女中にもとても優しかったと言っていた。
 そんな母親がしていた昔話を思い出しながら『小さいおうち』を読んだのだ。
 タキが帰形後に徴用された「市内にあった飛行機工場」とは、「日本飛行機」、通称「日飛(ニッピ)」の広大な工場のことで、そこでは赤トンボを製造していた。秘密にロケット戦闘機秋水の部品も製造していたという。高等女学校の生徒も勤労動員で働いていた。今はその場所の一部に、高等女学校の後身である県立高校が建っている。自分の現勤務地である。
 この作品や、(いっしょにして語るのはおこがましいが)今回自分が書いた大会参加作品のように、生々しい時代の空気を感じられる資料に当たって虚構を創作するということが、実に面白いということに気付く。事実は小説よりもというが、凡人の想像力なんて限りがあるから、取材して書くということが大事になる。もちろん作品を貫く「思い」は自分の心の底の底から苦労して汲み上げるのだが、人物造形とかストーリーとかは、自分だけの空想で作るより、事実から取材した方がはるかにおもしろいし、細部までリアリティーが出る。(自分の考証癖のせいもあろう)
 もし母が高等女学校に進み卒業していたら、昭和19年の高等女学校に起きた出来事をどのように見ていただろうか。考えさせられることの多い出来事である。
 今日の部活は大騒ぎの場面に手を入れた。もっと面白くできそうだが、知恵が出ない。