『悟浄』 漢劇WARRIORS

 

 

 

令和2年度文翔館創作公演事業

漢劇WARRIORS

 悟 浄 中島敦悟浄出世」「悟浄歎異」によるー

 山形県・公益財団法人山形県生涯学習文化財団主催/山形県芸術文化協会主管

 

 令和3年3月14日(日) 13:30開場 14:00開演 15:30頃終演

 入場料 1,100円  入場数 ざっと見120人くらい?

 

 

 中島敦の「悟浄出世」と「悟浄歎異~沙門悟浄の手記~」を舞台化したというので、一体どのようにしたのだろうと興味津々だった。原作には、映画やテレビの西遊記物のようなドラマは無いからだ(悟空の戦いの描写はあるが)。延々と語り手悟浄の独白と内面の吐露、自我についての思索が書かれているだけなのだ。それを身体的パフォーマンスを特徴にしている劇団が、どのようにこの作品を仕上げたのか。実に興味深いではないか。

 悟浄は妖怪のくせに字も読めるが気弱で、自分が何者であるかがわからない。天界では捲簾大将だったとも言われるが、その記憶は無い。悩んだ末に観世音菩薩の諭しにより、玄奘三蔵の力で水から出て人間となり、仏弟子となる。個性的な仲間たちとの旅は少しずつ孤独だった悟浄を変えていく。

 

 良くできていた。スタッフ面の充実が感じられたが、これは県の事業ということで受付などの係員も付き、予算面で補助が出たせいでしょうか。芝居についても、文学作品を土台にするという今までに無いやり方だったが、スマートで一応の成功を見せていると感じた。(一応というのはこれから下に書くようなことを考えたせいである)

 良くできていたのに、最後の幕が下りるとき、観客の拍手がすぐには起きず、ためらいがあったように感じられたのはなぜか。

 思うに、観客を舞台上の芝居に引き込む力、言ってしまえば「感情移入」の度合いの問題だろう。観客を「乗せる」と言っても良い。まあ、原作が地味と言えば地味なので、観客もなかなかついて行きづらいのだろうが、次第に引き込まれ登場人物に共感し(同化し)、心動かされるという、芝居の持つ効能?の部分では今一つだったかということだろう。

 悟浄の悩み、自分は何者であるかという疑問に、「我は捲簾大将なり」という解答を与えて解決しているようだが(失われた自我の回復?)、原作の本質は其処ではない。この芝居でも、進行していくうちに、どこかボタンの掛け違いがあるような微妙な違和感を覚えたのは、悟浄の本質である「自我の病」を癒やすのは悟空なのか玄奘なのかという本来の設定が、悟空の強さに憧れるという側面に傾きすぎたせいなのではないかと感じた。まあ個人的な感想に過ぎないが。

 

 舞台装置はシンプルに開帳場だけ。4×6の平台を6枚使い、幅4間、斜面1間、奥の高さ2尺1寸になっているようだ(上下に3段の階段が作ってある)。全面に灰色の布が掛けてある。この、平台で開帳場を作る場合の斜めに固定する方法はやったことがないので良く分からない。奥には幅2尺の平台があり、間口全体を歩けるようになっている。大道具は山形綜合舞台サービスが担当。

 この舞台は間口が狭く、奥行きも無く袖も狭いので、出入りが上下の第一袖幕になる。そのため単調な出入りになってしまうのは如何ともし難い。それ以外は開帳場とその前の空間を上手く使っていたと思う。4人が旅するシーンなど良かった。

 照明はさすがにプロがやると違う。シーン毎のライティングは良く状景を表現している。また、LED照明になって電力に余裕ができたせいか(知らんけど)灯体数も多く使っているようだった。色合いも違う。フォローも使っていた。

 このホールは、大臣柱から客席側への壁が大理石でピカピカなので、客席からは舞台がきれいに写って見える。気になるのだろう、黒幕で覆ってあった。

 第一部(「悟浄出世」の部分)の舞台は流沙河の底。大黒幕を引き、暗い照明とスモーク。青野耕平が一人芝居で妖怪たちを演じ分ける。一部、黒子(歌舞伎の黒子そのまま)二人が悟浄の心象表現をしているようだった。

 第二部(「悟浄歎異」の部分)は、ホリゾントを見せ、明るい舞台。空の表現、流れ雲あり。悟浄は第二部では一人のキャラクターを演じるので衣装を換える。もっと劇的に換えてもよかったかもしれない。第一部をモノトーンにするとか。登場人物はお馴染みの衣装で、小道具も含め良く作ってあり、違和感が無い。(八戒の背負うのは柳行李だっけ?)

 

 悟浄はもっと陰気な奴かと思っていたが、読み直してみると原作でも意外に太い?ところがある。虚無的になりきれない、人の良さが感じられる。ただ、20㎏の減量が必要だったように、青野の福々しい体型と人の良さ丸出しの面相はちょっとズレている気がしないでもない。第一部はもっと険しく内省的で孤独な感じで、第二部は仲間と師を得て落ち着き、笑えるようになる、というような変化がもっと感じられたら良かったかも知れない。

 悟浄は、孫悟空の、世界と隙なく一致して何の迷いも無い純粋な存在であることと、玄奘三蔵の全く無防備ながら内面に持つ清浄かつ柔和な強さと悲劇性に惹かれている。

 今回の舞台では悟空(佐藤陽介)の造形は良くできていて、悟空とは斯くもありなんというくらいだった。ただ玄奘についてはその弱さ、優しさそして強さが表現しきれなかった感がある。第一部最後での観音様の台詞を玄奘に再び言わせてしまったのは、まあしょうがないにしても、若くてカッコいい王子様みたいに見えてしまった。これは脚色・演出上のことで役者のことではない。

 悟空がアクションを見せる時間を、玄奘の遭難エピソードに割いて、もっとその弱さと優しさの表現に用いたなら、悟空とのバランスが取れたかも知れない(妖怪たちに襲われている場面で、悟浄にばかり目が行って、玄奘に注目できなかった所為もあるだろうが)。悟浄は、悟空から学びはしても悟空そのものになりたいのではなく、己を捨てて玄奘に従うことにこそ生きる道を見出したのだから(劇中で「俺はお前になりたいのだ」と言わせてしまったけれどね)。

 悟浄が食った九人の僧侶が玄奘の前世だったというエピソードは原作には無い。そもそもの「西遊記」にはあったものか、或は脚色者が加えたものか? 後者であれば、悟浄の内省にそこまで因縁を持たせなくても良かったかも知れない。

 悟能八戒についてはダブルキャストで、自分が観たのは高橋だが、達者だった。ただ食いしん坊の表現の中に、妖怪の不気味さが垣間見られたら(原作でもちょっと触れている)もっと引き立ったかも知れない。

 

 と、いろいろ書いたが、総じて良くできていた。結成以来13年目の漢劇WARRIORS、ずっと観ているが、時代劇から現代劇まで、コメディーからシリアスまでこなせる力量を備えている。だんだん年取るけれど、その時の自分に相応の芝居をしていってほしい。 

 お疲れ様でした。