以下は、十数年ぶりに、知り得た原文から自分なりに読み下したもの。前出論文の返り点とは、第4面の一部が異なる。やはり第2面の3・4行と第4面がよく分からない。
かなりあやしい解釈のようなものも付けたが、果たして如何。
道澄寺梵鐘銘文 訓読試行
道澄寺は、従三位守大納言兼右近衛大将行皇太子傅(ふ)藤原朝臣(道明)、
四恩に報い六趣(=六道)を濟(すく)ふ為、
誠を合はせ力を勠(あは)せて建立する所なり。
堂宇は甍を比(なら)べて南北に輪奐し、尊像は座を接(つ)ぎて前後に跏趺す。
両相公宿りては香火の縁を殖(ふ)やし、生きては瓜葛(かかつ)の戚と為る。
唯に現世に契闊(けっかつ、=久闊)の情を結ぶのみに非ず、
亦(また)浄刹に安養の楽を共にせんと欲す。
故に各々其の名の首字を取り、以て此の寺の額題と為す。
本縁を来代に貽(=贈、おく)り、同志を他生に期する所以なり。
藤亜相、爰(ここ)に鳬(ふ)匠に命じて乃ち鴻鐘を鋳(い)しむ。
且つ将に長夜に昏迷するものをして妙聲を聞きて暁を知り、苦海(=苦界)に沈溺するものをして梵叫に驚きて津に通はしめんとす。
延喜十七年十一月三日之に銘す。其の詞に云ふ。
倕師は冶を施し、菩提は縁を催す。
虚しく受くれば必ず應(こた)へ、響き高ければ自(おの)づから傳はる。
夕べより暁に至るまで、定に入り禅に出づ。
傍らに衆聖を唱へ、遥かに大仙を警(いまし)む。
法の喜びは感を増し、耶(=邪、よこしま)なる夢は眠りを驚かして、
阿鼻獄に通じ、有頂天に達す。
劫は数億萬、世界は三千あれども、
一音の利益は無限無邊なり。
〈 注、あるいは部分解釈のようなもの 〉
○ 橘澄清は、藤原道明の母の兄弟で、二人はおじ・甥の関係である。橘澄清は
○ 従三位である藤原道明は、「大納言」は正三位相当なので「守」、「皇太子傅」は
正四位上相当なので「行」となる。
○ 従四位上である橘澄清は、「勘解由使長官」は正五位下相当なので「行」となる。
○ 二人は信仰心が深く、協力して寺を建立した。立派な寺が出来たので、親戚関係に
ある二人は、なおこの寺で心身を養い浄めたい。
○ この寺を建立した二人の名の首字、すなわち道明の「道」、澄清の「澄」の字を取
って寺の名とした。
○ (「所以」の二字は次の面に送っても良いように思うが、一連の文章なのでそうは
いかないのだろう。次の面が二字分空いているのだが。)
○ 後世の人と仏縁を結び、同じ信仰の道を歩んで欲しい。そこで鐘を鋳造させた。
○ この鐘の音で、長い夜に昏迷し邪夢に悩まされている者の眠りを醒まし、この世の
苦海に溺れる者が陸に上がれるように。
○ 巧みな工人は鐘を鋳、悟りは仏縁を結ぶ。夕べから暁まで入定し、近くに聖人たち
の遠くに仏の名を呼べば、仏法の喜びは地獄にまでも最上天にまでも届く。
(この辺、かなりあやしい)
○ 時間は数億萬、世界は三千あるというが、この鐘の一撞きの響きは、無限の時間と
無辺の広さに利益(りやく、=功徳)をもたらすであろう。
…かなりいい加減で申し訳ない…。また手直しします。
漢文訓読で原則にしていること。
一字一語の場合、特に動詞の場合はできるだけ訓読みしている。例えば、「接」を「接す」のようなサ変動詞ではなく「接(つ)ぐ」と読んでいる。熟語は音読するが、どこまで熟語として読むかは読む人の好みによるだろう。
対句で片方が音読み(サ変動詞)になっていれば対する部分も音読みに、訓読みしていれば対する部分も訓読みにしている。「四恩に報じ六趣を濟す」と読むか、「四恩に報い六趣を濟ふ」と読むかは、これも好みの問題と思う。