マンガを読んで信仰心(発心)を考える

 仏教の中でキリスト教一神教)に近いのが浄土真宗だそうだ、ということを前に書いたが、最近twitterで話題になっているマンガを発端にして少し考えてみた。

 (マンガの一場面を引用しましたが、もし不適当であればすぐに削除します)

 今昔物語集の一話(巻十九本朝附仏法第十四話)をマンガ化したものだが、原作には書かれていない、出家した男の発心の理由についてその内面を描いているところが興味深かった。作品には強く感動しました。

 乱暴狼藉、非道の限りを尽くした男が(原作では源大夫で五位とあるから地方に流れた貴族のなれの果てかもしれない)、たまたま御堂で講を行う僧侶に向かって、自分が納得するようなことを聞かせろと強要する。もちろん男は仏法など聞いたことも無く信じてもいない。僧は、西方浄土阿弥陀仏がいらっしゃって、たとえ悪を積んでもひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば必ず迎えられて極楽往生すると語る。男は、ならば自分のような者も救われ、阿弥陀仏の名を唱えれば答えてくれるかと問う。僧は、仏は何人をも哀れむから、実の心で呼べば必ず答えると言う。男はたちまち剃髪を請い、弓・胡録を僧衣・金鼓に換え、ひたすら西に向かって歩き出す。山も川もかまわずに「阿弥陀仏よや、おい、おい」と唱えつつ直進する。途中の寺で住持に七日経ったら探しに来るよう言う。七日後に住持が探しに行くと、男は海に向かう高い山の頂の二股の木に腰掛けていた。

 (以下、やたがらすナビより引用 「入道」とはこの男のことを指す)

 住持を見て、喜て云く、「我れ、『尚此より西にも行て、海にも入なむ』と思ひしかども、此にて阿弥陀仏の答へ給へば、其れを呼び奉り居たる也」と。住持、此れを聞て、「奇異(あさま)し」と思ひて、「何に答へ給ぞ」と問へば、「然は、呼び奉らむ。聞(きけ)」など云て、「阿弥陀仏よや、おい、おい。何こに御ます」と叫べば、海の中に微妙の御音有て、「此に有り」と答へ給ひければ、入道、「此れを聞や」と云ふ。住持、此の御音を聞て、悲しく貴くて、臥し丸び泣く事限無し。入道も涙を流して云く、「汝ぢ、速に返るべし。今七日有て来て、我が有様を見畢よ」と。

 

                     (作者、瀬川環さんのtwitterから引用)

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 阿弥陀仏が男の呼びかけに応じ、男は極楽往生するという話なのであるが、発心の部分が近代人には理解できない。極悪人が遊行僧に変じるポイントが何かである。そこをこの作品は描いている。したい放題の極悪人の中にも苦しみはあって、それはなぜ、そしてどのように自分が生きたかの本当のところを誰も知らないことである。この生き方以外にどうしようもなく生きて来た人生を、善悪含めてすべてありのままに見てくれる存在がいれば……

 

                              (作者、瀬川環さんのtwitterから引用)

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 この平安時代の話をマンガ化した作品が我々を感動させる理由は、現代人の心に在る或る空隙が、「超越者」の存在によって埋められるだろうことを示唆しているからではないか。つまり、平安時代の人間も令和の時代の人間も、同じく人間としての〈人間である限り逃れられない〉苦悩を持っていて、同じく(「仏」という)超越者を求めているということではないか。

 現代の我々はほぼ無宗教の生き方をしているが、無宗教であることに何の不自由も感じてはいない。だが、今多くの日本人が、表面上は豊かな社会の中で心弱くなっているように感じる。

 

 

 ここで短絡的に宗教の必要性というところに論を持って行くのはどうかと思うので、自分が思い出す、50年ほど前のマンガを紹介したい。岡田史子の「死んでしまった手首」という作品である。雑誌「COM」昭和44年(1969)5月号に掲載された。自分は当時高校生でこれを読んだが、現在、朝日ソノラマのsuncomics「ほんの少しの水」で読み返している。(ネタバレですので、これから読もうという方はそのおつもりで)

 

 上代日本の貴族の次男文市(あやち)少年の話。父親が急死し、跡継ぎには長男智努(ちぬ)ではなく、次男文市をと遺言される。兄弟は腹違いで、文市の母が夫を毒殺し、自分の子文市を跡継ぎにさせたというのが事実であった。智努は逃亡し、事実を知った文市は母親、ひいては人間への不信感に苛まれてゆく。好意を抱いていた娘と引き離され(そしてその女は殺される)、政略結婚を強要されるとその相手の姫を殺して放火してしまう。

 獄屋を経て自分を失い彷徨う文市は、洗濯する女が川に流されるのを見る。

 

                      (朝日ソノラマsuncomics「ほんの少しの水」より引用)

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 助けを求める女を救おうともせず、死ぬことをよしとする文市の荒んだ心を、我々は理解できるだろうか。理解できても同調するだろうか。毒親のせいで自分の知らないところで自分の運命が決められ、自分ひいては人間が生きることの意味を見出せない苦しみ…。

 文市はこの後、自分の手首を切り落とし、崖から身を投げて死ぬ。文市を知る仏師は、供養として制作中の天竜八部衆、阿修羅像に彼の手首を塗り込めるのだった。

 

 

 

 

 

 者はしかし、文市(あやち)を指弾する。

 

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                      (朝日ソノラマsuncomics「ほんの少しの水」より引用)

 

 17歳の自分はこのコマを見て、自分が指さされているような気持ちがした。

 どのように運命が降りかかろうとも、人間は自分の生き方に責任を持たねばならない。恨んだり妬んだり悔しがったり蔑んだり被害者ぶったり人の所為にしたり誤魔化したり放り出したりするのではなく、運命に抗い努力し、良心を保ち助け合い、思いを分け合うべきなのだ。それを放棄して無為に流されるのは悪である、と。

 (ああ、自分は今になっても変わらないな…)

 

 

 さて、50年前のこのマンガの指摘している(と思う)ことと、先のマンガの(作品構造は平安末期、解釈は現代)内容を見比べてみよう。共通点は人間の根本か、違いは時代的な変化か。

 悪人がいかに救われるか、救われないか。救いを求めるか、求めないか。救いを求める対象があるか、ないか。源大夫にあって文市に無かったものは何か。

 

 そこが、宗教心を持つか持たないかの分かれ目なのかなとも思う。求めよさらば与えられん。叩けよさらば開かれん、か。求めない者に神仏の加護(赦し)があろうはずもないか。

 弥陀の称号を唱えるか。

 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏