戦争?  ウイルスとの

 新型肺炎の流行が熾烈になってから、これを「ウイルスとの戦争」ととらえる人が世界中で多くなったようだ。各国の指導者たちが自国民に対してそのように訴えている。しかしウイルスという敵は目に見えないので、戦う相手がどこにいるのか分からない。単に自宅から出るなというだけでは一般人の生活が成り立たなくなるので、実に厄介なことになっている。まあ本当にペストのように身近な人がバタバタ死んでいくようになれば黙っていても閉じこもらざるを得まいが。

 日本ではあまり「戦争」という例え方はしない。が、あたかも医療施設は戦場で、医療関係者は日々戦地に赴く兵士といった感がある。自らが感染して重症化、死亡する危険を冒しても患者を救わなければならないという使命感が、彼らを「戦場」に赴かせるのだろう。

 都市部の病院を「前線」に例えれば、感染者の少ない地方の一般人は「銃後」にいると言えるだろう。こんな言い方をすること自体に拒絶感を覚える人も多いのだろうが、あえて言ってみれば、戦中の東京が焼夷弾の雨で焼かれ、多くの一般人が死傷し、財産を失っていた時、銃後の田舎(ここでは山形市を考えよう)では空襲も無く、食い物もあり(食糧不足は戦争後の方が厳しかった)戦争を身近に感じるのは、家族や知人が兵隊に招集される時や勤労動員の時くらいだったのではないか。

 今我々は「銃後の守り」を固めるときなのか。県境で検温したり、帰県者に二週間の自宅待機を要請したりしているが、所詮「守り」であって、我々には今のところ積極的にウイルスに対抗する手段が無いのだから、息を潜めて隠れているしか無いのだ。

 医師や看護師の方が病院で奮闘しているとき、我々は彼らに衷心からの感謝と励ましを送るべきである。一方、思うことは、それは「戦地の兵隊さんありがとう」とどう違うのか、或いは違わないのかということだ。そこに心情として大きな違いは無いだろうという感じは、極端に言えば、身を捨てて敵艦に突入するパイロットとそれを見送る整備兵や女学生、新聞で知る国民の心情を、戦時を知らない現代人が追体験し共感するということになっていないかという想像に至る。

 まあこんなことを書くと、お読みになる方には本当に反発される方もいるのではないかと思います。戦争は人の判断で止めることができるがウイルス相手では停戦交渉もできないので、全然別の話ではあるのでしょう。医療を仕事とすることと特攻に志願することを同列に比較すること自体間違っているのかも知れません。ただ、医療関係者以外にも、警察官・消防隊員・海上保安官自衛官など同じように自分の身命を掛けて人を助ける立場の人が多くいることを忘れてはいけないし、彼らへの敬意を持たなければならないのは間違いない。

 日本より後に流行が始まった欧米の死者数はすでに万単位だが、日本は三、四百人である。もし日本で万単位の死者が出る事態になったら、今のような自粛要請で済むのか、我々国民の意識(「ストレスが溜まるからパチンコ店に並ぶ」と言う人がいる状況)はどう変わっていくのかということは深く考えるべきだろう。