戦争する? しない?

 戦争させない。戦争を本当に止める。ふるえるほど戦争がしたくない。
 どういうことだろう? 今戦争をしたがっているのは誰だと考えているのだろうか?
 どこからそんな発想が出てくるのか、自分の心に照らしてよく考えてみてほしい。日本がまた侵略戦争を始めようとしている、という妄想の産物ではないのか。
 日本がどの国を侵略するというのか? ロシア? 北朝鮮? 韓国? これらの国は、現実には、日本の領土や国民を実力で奪い、拉致しているではないか。日本はそれを実力で奪い返すことはしないでいる。何年も何十年も、根気強く外交交渉や経済制裁で解決しようとしているではないか。
 中国は日本が実効支配している島を自国の領土として奪いに来ている。
 領土、国民を守るのは国家の責任だろうが、守れてこなかった戦後の歴史がある。
 北方四島竹島は日本の独立回復前、占領時代に奪われたものだ。如何ともし難い状況だっただろう。しかし、今、自国領土を侵害する相手に抵抗しなかったら、そんな国家は誰も信用しないのではないか。
 万が一、どこかの国が日本に侵略してきたら、日本は独立を守るために戦争するのかしないのか。「非武装国民抵抗」とか言って降伏し、「世界」が助けてくれるのを待つというのか。戦わずに支配を甘受して生きる道を選ぶのか。

 若い人は自分たちが徴兵されて戦わされると思っているのか。戦うのは志願して入隊した自衛隊員だ。大戦末期のように、本土に上陸してくる敵に一般人が自爆攻撃をかけるなんてことは、今の誰も考えない。だから君たちが戦いたくなければ戦わなくて良いのだ。とりあえずは自衛隊が命に替えて守ってくれる(「自衛隊員を死なせるな」などと言って足を引っ張ることはない。彼らはわざわざ自ら志願して我々を守ろうとしているのだから)。自衛隊が負けたら、後はみんな両手を上げて降伏し、占領されるだけだ。占領軍に迎合するのも良いかもしれない。

 日本は100年ほど前に、弱体化していた大韓帝国を併合した。朝鮮半島大日本帝国となった。学校を建て日本語教育を行った。神社を建立し、神道の礼拝を強いた。弱体化した国(アジア諸国)は強国(西欧列強)に支配される時代だった。
 考えてみてほしい。他国が日本の支配者になり、その国の言葉が公用語の一つになることを。
 考えてみてほしい。宗教、特に神道は禁じられ、神社を拝むと罰せられるという状況を。
 考えてみてほしい。天皇制は徐々に解体し、50年後に廃止すると決められたとしたら(香港の体制は50年間は存続を保証されていたはずだが、もう事実上無効と言われている)。

 日本はアメリカの占領下、徹底して自己否定の洗脳を受けた。一方で生活・文化はアメリカナイズされた(初めて見た頃のテレビ番組って、アメリカのホームドラマ(大きな牛乳瓶やオーブンで丸ごと鶏を焼くのに驚いた)や西部劇(騎兵隊は善、インディアンは悪)、ヨーロッパ戦線の戦争ドラマ(米軍は善、独軍は悪)ばっかりだったよ)。
 少し話がそれるが、戦中戦後を生きた日本人は、二度洗脳を受けたようなもので、複雑な記憶を持たされている。空襲に対する恐怖と怒りを感じながら(これは真実の感情だろう)、その責任は日本にあり、米軍は解放者で、二度とあんな戦争はしていけないと強調する。何か矛盾しているように感じられないか? アメリカは、中国共産党徳田球一)が日本兵捕虜に対して行った洗脳の方法に学んだのだとか。今度は本場の洗脳を受けることになるのか?

 中国は順調に?発展して、世界の指導者的地位に立つだろうか。
 その収奪、詐欺的経済の破綻、その自然破壊、重大な環境(水・空気・土)汚染。政治の腐敗。統制されない軍隊。公正・公平さを欠く統治。民族・宗教の弾圧。不安要素は数え切れない。
 大陸の多くの地域が荒れ果て住めなくなったとしたら、彼らはシベリアや北朝鮮や台湾に大挙して移住するのではないか。そして日本にも。
 若い人達は自分が戦わずに支配されることで、自分たちの子供や孫がどんなふうに育つか考えてみればいい。今以上の平和で豊かな生活を享受できるのか。惰弱な国民と見下され、二等国民というレッテルを貼られる屈辱が待っているのではないか。