2017学校祭上演終了

 地区大会の会場でもある市民会館大ホールでの学校祭上演が終了。
 会館スタッフの方々には本当にお世話になりました。感謝です。

 しかし疲れた。
 自分の脚本の芝居を見るのはやはり心臓に悪い。それも全校生徒プラス職員プラス一般客で700人以上の前である。もうドキドキハラハラ、生きた心地がしなかった。この年にしてこうである。
 まして初演。観客の反応がどうなるか全く分からない。初演ゆえのミスも多々出る。

 今回、学校祭の委員会で作ってくれたパンフ(紙1枚裏表に今日発表した文化部の発表内容が簡単に書いてある)にキャスト・スタッフの名前が載せてあるのだが、タイトルの次にあるべき「○○作、『○○○』より」という部分が抜けていた! 某先生から言われるまで気付かなかったが、『○○○』を知っている人が舞台をみたら盗作だと言われても仕方がない。不本意だが、自分のミスである。いたく気落ちする。大会パンフの原稿はちゃんと副題を添えて出してあるので大丈夫だが。

 今回は原作があって、「その作品を稽古している演劇部」という設定なので、大半が原作の台詞で出来ている。だが、普通やられている演出とは少しく違う演出を試みているので、換骨奪胎ともいうべき作業になった。こんな設定を快く受け入れ、「創作」として脚本使用を許諾してくださった原作者には本当に感謝している。原作の大切な部分を損なうようなことがないように心して取り組んでいます。


 今回はドラマを書きたくなかった。誰かがいなくなったり、病気になったり死んだりしない。衝突も仲直りも別れも恋愛も家族もない。ただひたすら稽古している。登場する部員たちには固有名詞すらない。部員たちの負う生育歴とか問題とかはいっさい語られない。つまり今回の作品の主役は原作の『○○○』であり、演劇の出来上がる瞬間の輝きである。芝居の稽古、演出そのものの面白さ、そこにドラマ性を見る。そんな考えで書いたのだ。
 ということで、演劇部の稽古というものを見たことがなく、また原作を全く知らない一般高校生には、なかなか理解できないものになってしまっている。

 劇的な設定はいくらでも考えられる。劇的な展開も考えられる。しかし、なぜか飽きてしまったのだ。フィクションに飽きた、と言っていいのか。小学校の頃からお話を考えるのが好きで、結構、夢想家であったのだが、最近は年のせいか、どこか嘘くさい気がしてしまうのだ。

 自分の顧問としての最後の作品は、書きたいものを書きたいように書いた、あるいは、今書けるものはこれでしかない。そんなものになっている。(まだうまく成立していないけれど…)
 部員たちはこんな暗中模索の作品にも良く取り組んでくれているので、自分ももう少し悩んで、手直ししなければならない。
 
 今日は卒業した学年がほぼそろって観に来てくれた。うれしかった。ありがとう。みんな元気そうでよかった。