『JOY TO THE WORLD~上田美和、作「トシドンの放課後」より』②

 脚本は読まれたでしょうか?

 9年前になるか、「トシドンの放課後」を部室で上演した。2日目は他校部員にも観てもらった。当時は部員が少なくて、3人のキャストがやっとだった。しかし、役には上手くはまっていた。
 その時に、台本の指示とはちょっと違って、舞台上の机や椅子の配置を変えてみた。これは、それ以前に観た同作品の上演が、いつも何か違和感が拭えなかったからだ。他にもいろいろ考えて演出したのだったが、そのことをブログに書いたら結構読まれたようだった。その記事を参考にして上演してくれた部もあった。
 その記事は今は閲覧できないようにしてある。それは、特定の演出法が唯一正しいと決めつけるようなことは危険だという意見をいただいたからである。まあ、自分にはそういう意図はないのだが、結果的にそうなるのだったら鍵をかけておくのが無難かと思った次第である。(自分に傲慢なところがあるのは認識しているので。)

 それで、昨年、顧問として最後の大会上演作品を書こうとしたときに、あれこれ考えてお話を作ろうとしたのだが、2年間書かなかったせいもあるのだろうが、「お話」「ドラマ」を作ることに、何か嘘くささを感じてしまって、手が止まってしまうのだった。元来「お話作り」は出来る方だと思っていたが、今回は思いつくことが皆、嘘くさい。実は、自分の書くもの以外にも、よそ様の作品を観ても嘘くさく感じてしまうようになったのだ。

 それで、ドラマを排することにした。だから役者にも役名がない。部活動をそのまま書こうと思った。
 だが、「部活動をそのまま舞台に」というと、大会を前にして台本が出来ないだの、部員の中で意見の違いが出て分裂するだの、台本と実際の生徒の状況が重なるだのという筋が考えられるが、そういうところではなく、「いかに作品を作っていくか」という、その一点に絞ったのだ。
 まあ「トシドンの放課後」というドラマはあるのだが、それをいかに演技していくか、いかに芝居にしていくかという過程の面白さを追求しようとした。よくテレビで高名な脚本家や演出家が役者に指導して舞台を作り上げていく過程をドキュメンタリーにしたものが放映されるが、ああいった面白さが感じられないかと思ったのだ。何のことはない、「幕が上がる」のようなもので、強力な指導者が部員たちを指導して力を出させる(「スラムダンク」か)パターンだが、ここに顧問の先生を出すのは止めた。じゃあ、部員たちが侃々諤々、議論し合い、感動のラストに…とするかというとそれも嫌だった。
 で、少しは知識も経験もあって、演出を考えられる上級生部員という役を設定した。他の部員(役)は皆素直にその指示に従うので、「こんなスムースに進む部活はありえない」という感想もあった。
 しかし自分には、言ってみれば、ガチャガチャしている部活が最後に一つにまとまることの「感動」の嘘くささの方が、ありえないと感じられるようになっていたのだ。

 転換もなく、部室の中に組まれたセットを使っての稽古が延々と続く。少しやっては直し、また少しやっては直す。演出は言葉で説明する。役者はそれを聞き、理解し、演技する。それを見て演出はさらに指示(さらなる解釈)を出す。演出自身も考えながら芝居を作っていく。演出プランは少しずつ緻密になり、結末では原作者の考えるところをも越えてしまう。そんな面白さが出せないかという試みだった。
 プロローグとエピローグに、原作にはない、あかねの子供の頃のトシドン体験と、卒業後数年の平野とあかねの再会シーンを付けたのは、まあ、こうしないと本当につまらなくて死んでしまうかもと思ったのもあるが、中間のほとんどが「リアルな」部活動だったとして、同じ役者が演じているプロローグとエピローグは、じゃあ「リアル」なのか何なのか。部室での稽古は、最後には衣装を着け、音響が入り、照明も入って、演出や舞監などスタッフはいつのまにか退場し、あたかも大会の舞台で演じられているかのようになっていくのだが、それでは、ラストのコンビニのシーンは「リアル」なのか、何なのか。それはあってほしい未来であり、プロローグのトシドンたちとの関わりは、こうであったはずだという過去である。
 部室でのリアルを越えて、この作品が広がっていく。
 あるいは、部室の場面が本当に「リアル」なのか。
 もっと言えば、高校演劇自体が、いかに「リアル」を描いているようであっても、それが本当に「リアル」なのか、というような疑問をぶつけてみたのだ。と、そんな気もする。  (続く)