小坂鉱山「康楽館」の話

 秋田県北部は山深い。若い頃フェンシング部顧問だったので合川高校に生徒を連れて遠征したことがある。阿仁合線という鉄道路線で行ったのだが、林業の町という感じだった。
 このあたりは以前は鉱山が多く、院内、尾去沢、阿仁、小坂、花岡などの鉱山があった。
 花岡は今大館市になっているようだが、「花岡事件」で有名である。
 昭和20年(1945)6月のある夜に中国人たち850人ほどが蜂起し補導係の日本人4人を殺害して逃亡したものだ。当時の花岡鉱山は軍直轄の鉱山であった。堂屋敷鉱床の上を川が流れており、無理な採掘はできないところを、川の流路を変えろとなってその工事に1000人ほどの中国人を鹿島組が連れてきて使役したのだ。別の坑にはアメリカ人捕虜も300人くらいいて、これも非道い扱いを受けていたようだ。8月15日の後、B29が10数機飛来して捕虜たちに大量の物資を投下していった。パラシュートのついたドラム缶に入っていたのだが、運悪く、その下敷きになって死んだ子供がいたという。
 花岡鉱山、小坂鉱山とも昭和18年(1943)に帝国鉱業開発会社に接収されたが、戦後は新しい同和鉱業株式会社の経営するところとなった。
 花岡鉱山で蜂起した中国人たちは獅子ヶ森という山に逃げ込んで、1週間ほど抵抗したが、水もない石だらけの山で、籠城ならず全員降伏した。彼らは「共楽館」という厚生施設(映画館、芝居小屋)の前庭に縛られて暴行を受けた。1週間もろくに食っていない彼らは体力の限界で、その場で命を落とす者も多かったという。終戦までに420人ほどが亡くなったという。

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    上の写真は、無明舎「聞き書き 鉱夫の仕事」(高田源蔵)より

 会社は鉱夫たちの娯楽のために「共楽館」のような施設を作っていた。皆そこで映画を見たりするのが楽しみだった。「共楽館」は昭和54年(1979)に解体され、その後に大館市立体育館が建てられた。

 小坂鉱山には同様の施設で「康楽館」という芝居小屋があった。明治43年(1910)8月の建築で、藤田組の山本辰之助という人の設計だ。平成14年(2002)に国の重要文化財になっている。定員は600人。老朽化とテレビの普及などによって昭和45年(1970)に一般興業を中止したが、町民の熱意により、昭和60年(1985)同和鉱業から小坂町へ無償譲渡され、修復の後に昭和61年(1986)に秋田県指定有形文化財に指定された。平成22年が創建200年であった。

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 内部は江戸以来の日本の芝居小屋で、花道や回り舞台がある。こんぴら様の芝居小屋とほぼ同じである。行ったことはないのだが、たまたまパンフレットがあったので載せた。

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 この「康楽館」で幕引きをしていたのが誰あろう、安保健少年であった。観客の鉱夫たち、その家族の様子、幕の下から覗こうとする子供たちの様子…。彼が15歳の時に小屋は閉まった。
 まさにニューシネマパラダイスの世界である。彼の芝居にはそんな下地があるのだ。
 ということを、先日直接、安保先生からお聞きしました。