庭の椿が咲いた。
「あれから10日後?のスラムダンク」、じゃないが、あれから一月たった。
「~スラムダンク」は某廃校の教室黒板にチョークで画かれたもので、写真にしか残っていないが、シベールアリーナで行われた「わたしたちの幕が上がる~今日は一日高校演劇三昧」から一月経って、何かもう遙か昔のことのように感じている自分がいて、記憶と映像の中にだけ残っているそれが、一体何だったのか、ぼんやりとしている。
うちは、4月末の定期公演に向け、困難と障害の山また山を越えてきた。一難去ってまた一難の繰り返し、ようやく今日になって本格的に始動した。準備したものが形となって動き出し、皆がそれを感じたことが大きい。いや青春ですなあ。
劇中、殺陣があるので佐藤陽介氏を講師として部室での初稽古。6回を予定しているが、今日は3時間かけて16人が基本21動作を教わった。午前中の緊張が午後の場練にも影響し、濃密な稽古ができた。やはり稽古は楽しい。
「わたしたちの幕が上がる」にご協力いただいた方々には重ねて御礼申し上げます。
また、ご来場いただいた皆様にもあらためて感謝申し上げます。
アンケートは前に掲載したものでほぼすべてなのですが、2枚ほど掲載を見送らせていただいたものがあります。それは上演に対しての不満足を表明してくださったもので、真摯に受け止めさせていただきます。
ただ、芝居というものは必ずしも起承転結の形にならなければならないとは限りませんので、「『転』しかなかった」とか「『結』が弱い」とかいう見方をされると困惑してしまう部分もあります。
確かに、「校舎を燃やした」の中の劇は上演出来たのかどうか分からないまま終わったとも言えますが、それは起承転結を外しているというようなものではないと思うのです。あの劇の流れに従ってみれば、現代の顧問教師の「明日まで考えて、それからで良いのよ」という言葉は、直に戦中の担任教師のセリフ、優しげな言葉の中に込められたウソの自白強制に結びついて、この劇が演じられることは決してないということが分かるはずだと思います。分かっていただけないのは上演側の力不足ではあると思いますが。
ああ、ずっと気になっていたことを書いてしまった。
極論すれば、自分たちは100%観客のために芝居しているわけでもないということになってしまう。じゃあそれは自己満足とどこが違うんだと言われるとまた辛いところであるが、自分たちの思いが作品として昇華しているか否かという違いではないでしょうか。
もっと言えば、高校演劇はエンターテインメントではなく、芸術だろうということです。
ああ言っちゃった。