第8回春季全国高等学校演劇研究大会(北上市)

 正午前、北上駅着。西口までが遠い。大きなバッグはロッカーに入れ、タクシーで会場へ。周辺は静かである。入館して、予約してある入場整理券を受け取る。中ホールに上る階段に並んで開場を待つ。12番目くらいだった。客席真ん中あたりに着席。コートが邪魔だ。予想外に暖かく、しかし風は冷たいので悩ましい。
 
 会場、さくらホールは10周年。採光に優れ、館内は明るく広々と感じる。大中小とホールがあるが、今日は450席の中ホールしか見ていない。客席の傾斜は比較的急で、舞台からの距離を近くしている。座席の背の上のほうがが丸くて青いものだから、青いや…ドラえもんが並んでいるように見える。席は列ごとにずれているので舞台が観やすい。山形にもこういう会館が欲しい!
 
 客席はいくつかのゾーンに分けられていて、一般客はいい所を占めている。前が参加校、後ろが高校演劇関係者というようになっている。参加校生徒は上演ごとに入れ替えとなる。よく考えてある。ほぼ埋まっているが、まだ空席はある。明日は休日なので本当に満席になるかもしれない。
 北上駅からのシャトルバス(市営バス)は頻繁に出ており、たぶん空席で動いている時間帯もあるのではないかと思われる。でも有難い配慮である。館内でパンや弁当、菓子、飲み物がたくさん販売されている。ほんとによく気を使っている感じだ。ご苦労様です。
 
 開会式。地元岩手県高校生による鬼剣舞。男女3人ずつが鬼の面をつけて舞う。囃し方は皆女子。
 挨拶。先生も生徒も簡単でフランクだった。
 
 
 上演1 大分県立大分豊府高校 『きっても きっても はなれられない』 作、中原久典+豊劇
 
 きるのは手首で、リストカットのこと。高校の空き教室に集まってリストカットを行う「明るく陽気なリストカット部(非公認)」。きってもはなれられないのは親子のつながり。
 
 正面4間8尺高の灰色パネル。かなり汚してある。上下に1間のパネルが角度をつけて連続している。これには床際に掃除機当たりの部分が染めてある。4間の上・下部分には開き戸。2枚戸の片方だけが開閉し、片方はパネルの板に塗ってあるように見えた。下手の方が、左の戸が手前になっている。奥にはかがみのパネルがあるが、照明はない。
 教室用机16脚、長机、木の机、ロッカー、戸棚等々が壁際に置いてあり、転換は役者が行う。
 背景は黒幕。
 
 冒頭、チャイム。誰もいない物置のような教室に先生が入ってくる。ロッカーを開けてみたりするが誰もいない。とみえて先生が去ると箱の中や机の下、戸棚から生徒が出てくるのが可笑しい。
 4人が集まり、机にビニールを広げ、消毒薬を準備し、マイ・カッターを自慢したりする。ラップにのせて、家で泣かなくなった、くじけないめげない泣かないと歌う。重く暗いものを軽く明るくやろうという発想がおもしろい。
 入部希望者は未経験。みんなでやらせてしまう。それが母親に見つかり、学校にねじ込まれる。
 放送部の番組に出るというので取材中の教室に生徒指導部の先生、担任そして母親が乱入。ついにみんなばれてしまう。
 
 母親は、この子は帝王切開で産んだ子だと言う。体を傷つけてまで産んだ子がその体を傷つけるなんてとんでもない! みんなの親だって心配しているに違いないと。
 
 放送部の取材の場面、顔を隠すために蛙や馬、ペンギン等のマスクを被っているのがギャグになっている。おもしろいのだが、この作品のタイトルにあるような部分が本筋なのであれば、母親の描写にもっと時間を費やしたらいいのではなかったろうか。帝王切開での出産がやや唐突に語られたように思う。
 
 「先生、リストカットは悪いことですか?」「やめられるならやめたほうがいいわ。傷が残ったりしたら」「いつもそう! わかっていない。私たちは死なないために、生きるためにやっているんです!」
 ここで新米教師は何も言わなくなってしまうが、何か言わせるべきではないか? 部員たちが泣きながら陽気なラップを歌い踊るところで暗転してしまった。この先生は生徒の置かれた状況と心情を初めて知ったとしても、人間として大人としての発言があるべきではないか?
 
 リスト・カットする生徒たちの、そこまで追い込まれた状況の切実さがいまひとつ伝えられていなかったので、泣いて訴えられても観客の心の底までは響かなかったのではないか。
 
 ラスト、指導を受けた後、相変わらず集まりながらも、プラスチックの定規で切る真似事をしている部員たち。それでも切ったような気になれるというようなことだが、一抹の不安と名残りを残して去る。
 
 安定した演技。しっかりした装置。全体的に良く出来ているのだが、各役柄がやや類型的に見えるのが残念と言えば残念か。
 お疲れ様でした。
 
 
 上演2 愛知県立刈谷東高校 『笑ってよ ゲロ子ちゃん』 作、兵藤友彦
 
 長机が2脚合わせて置いてあるのが放送席。マイクがある(実際に音声を拾う)。上手袖近くにスタジオの入り口が作ってある(パネルの半分が枠のみで、そこから出入りする。半分は黒く塗って番組名が書いてある)。入口の上には放送中を示す赤い表示灯(点灯する)。出入りは重いドアのあるマイムで行う。
 下手にCDの棚があるというマイム。舞台前端が通路で、上手の入り口からスタジオに出入りするが、通路とスタジオはガラス窓で相互に見える設定。役者が客席に下りてきて演技する場面が多い。観客に話し掛けることも。
 リクエストでかけられる曲が丸々流される。RCサクセッションとか徳永英明とか。それが芝居の雰囲気を作るが、歌詞に頼る部分が大きくなる。
 
 放送局。Womans Nowという不人気番組のプロデューサー(男性)、ディレクター(女性)、アナウンサー(女性)、AD2人(男女)の話。放送事故を起こした罰に、女性ADを「ゲロ子」という蛙人間に扮装し町に出没させ、その情報を受け付け、新たな番組にしていこうとする。その企画は当たり、投書の山が出来る。ゲロ子はカエルの頭の被り物(手作り)。手には長い指を付ける。
 一時スタジオに帰ったゲロ子は、番組とのつながりを知られないように二度と来るなと追い払われる。ゲロ子はもう一人のADにトランジスタラジオをくれるように言う。同情しているADは渡す。これで毎日番組が聞けるわ。
 家にもスタジオにも帰ることを許されないゲロ子は次第に都市伝説化し、ありもしないエピソードがまことしやかに伝えられ、放送の中で虚像が不気味に膨らんでいく。ゲロ子は猫を食べ、牛を殺し、子供を脅すという。かつての口裂け女人面犬の噂が思い起こされる。アナウンサーはそういったリスナーからの投書を、どういう読み方をすれば良いのか悩む。
 ある日、ゲロ子がスタジオに現れスタッフへの恨みを晴らすために皆殺しにするだろうという投書が来る。もう一人のAD(男性)は信じないが、他のスタッフは、ゲロ子が本当に怪物に変わってしまったのだと怯える。やがてゲロ子がスタジオに現れる。男性ADもゲロ子を信じきれず、撃退しようとする。
 が、ゲロ子はADに花束と「アナウンサーになっておめでとう」と書いた横断幕を持ってきたのだった。椅子を振り上げる男にゲロ子が差し出す花束。情緒的には揺さぶられる。
 
 都市伝説が作られる過程を見せているが、その陰で犠牲になった人間がいる。理不尽な世間の噂と逆に自分たちの嘘に振り回される恐ろしさ。
 しかしホラー仕立ての話としてはいいのだろうが、『河童』のような批判性が発揮されるにはいまひとつ足りない感じだ。
 役者はほぼ叫んでいる。叫びあっている。そして不安や興奮を表す荒い息遣いでパニック状態が強く示される。ずっとそうなので、観ていて若干集中が切れる時があった。
 でもよくがんばっていました。お疲れ様でした。
 
 
上演3 長野県丸子修学館高校 『明日があるさ』 原作、井上光晴
      脚色、羽場小百合+丸子修学館演劇部(創作)
 
 昭和20年8月8日の夜から9日の昼までの長崎の話。結婚、出産。新しい命が生まれる。明日はまた新しい明日が来ると信じた人々は霧になって石碑になり、永遠に明日は来なかった。このシリアスなエピソードをおもいっきり換骨奪胎し、イメージの広がるままに舞台に表した。最終的にはあの日の長崎に帰着する。
 
 幕開き、2人の女性が派手な衣装でサンバを踊る。中割のあたりに4間の白いパネル。枠に障子紙が張ってあるような感じで、裏からの光が見える。影絵を見せるときもある。中央の2間分が左右に開く。要するに障子なのだろう。左右の部分はワイヤーで吊って支えている。開いた奥には布団が敷いてあって出産の場面と新婚の場面が演じられる(新婚初夜のシーンは女子も恥ずかしげなく馬鹿馬鹿しいまでに興味丸出しという表現になっていて受けていた。この脚色・演出が女子ですからねぇ)。パネルの上手にやや傾斜した高台、その前に3段の階段(1間幅、移動あり)。下手側には平台がベタ置きしてある。これらには黒い布がかけてある。舞台床面は全体に黒いパンチ?が敷いてある。
 ラストに原子爆弾投下シーンがアニメーションで投影された。4間幅の横長スクリーンなので複数のプロジェクターを使うのだろう。こういった映像の使用はどんどん増えてくるのではないか。
 
 アメリカ兵と思われる怪しい3人が現れたり、産婆さんを呼ぶと伝言ゲーム的に変換されて7人のゲバラが出てきたりもう滅茶苦茶であるが笑える。
 ささやかな結婚式と姉の出産が同時に進行するのだが、ドタバタ喜劇である。登場人物がみな誇張されていて元気いっぱいにしゃべり動き回る。役者さんは皆自信に満ちた感じでやっている。
 馬鹿だけれど愛すべき庶民たち、普通の人々の人生が理不尽に絶たれるその感慨を、こういう形でも表現できる、ということなのだろう。それはある程度上手くいったのではないか。
 
 ラスト、暗転幕が下りて拍手が来たが、その後炸裂音で緞帳となった。少し拍手のタイミングがつかみにくかったか。スポットで中央の人々だけを残すほうが観客には分かりやすかったかもしれない。
 
 自分たちでここまでつくりあげたのは立派だろう。お疲れ様でした。