録画を二度見た

 勝手な個人の感想です。全く、好みで書いています。こんな見方もあるという程度のものです。
 
 
 朝鮮学校から日本の高校に移ってきた2人の生徒。1人を追いかけてもう1人が移ってくる。その役者2人がよく頑張って、魅力的に演じた。
 床を踏みならす音と音楽、若々しい動きで、青春の心の嵐を表現した。と言ったらいいのかな。
 
 
 暗転が4回。無音の暗転もある。あと、踊りながら衣装を変える(Tシャツになる)のを見せた暗転? もある。
 装置は幅6間、高さ8尺くらいのパネル。中間の3間には窓がある。窓は1間パネルの下手寄りに空いていて、上手が1尺くらい板張りになっている。窓には何も張ってあるようには見えない。窓枠は角材で組んであるが、左右の窓の奥行きの違いまでは出せていない。窓の向こうは廊下で、かがみのパネルもあるが、廊下に照明がないようで暗い。先生と主人公が吉報を届けるのに、上手から廊下を走ってきて下手の入り口から入る(教室の前方で話すため?)。職員室は下手で、会議室は上手なのか?
 パネルは舞台に平行に並べてあるので上・下からのSSが効く(手前での教室外のシーンもある)。ただ、6間の教室は広い。汚しは上手くしてあるようだ。パネルの端は袖幕(か中割幕)。
 上・下の各1間半は中央の3尺が引き戸(上の方に小さな窓がある)になっている。上手の戸は引き手が上手側にあり、下手側に開く。下手の戸は引き手が下手側にあり、上手側に開く。学校建築で、このように教室の出入り口が3尺の引き戸というのがあるのか? (思うに、元々2枚戸の引き戸だったのを、片方ずつ使った結果なのか?)
 黒板無し、掲示物無し。ロッカー無し。教卓と生徒の机、椅子そしてゴミがあるばかり。ゴミ箱もない。箒が立てかけてあるようだが。荒れた教室というイメージか。
 台詞は、何を言っているかよく聞き取れない部分がある。早口だし、叫んでいるし、(東北人の自分には→自分は自称)大阪弁がよく分からないせいもあるだろう。舞台前の数本のマイクで拾っているので、マイクの前に来ると大きくなる。横を向くと小さくなる。
 重要な台詞を、相手の役者にではなく、客席を向いてしゃべる時が多い。
 仕草。動きにしながあるというか、動く前のためがあるというか、アニメで走り出す前に逆の動きをつけるような感じがする。嫌いではないが。
 
 異質な生徒が入ることで、対立が起き、沈滞かつ荒れていたクラスが混乱するが、一つの行事を契機としてまとまっていく。それが文化祭だったりする。文化祭でロック(演奏+踊り)をやろういう意志の共有。嵐のような荒んだ世界が、嵐のようなロックに変わっていく。
 もう一つ、悩んでいるのは私だけじゃないよね、みんな同じなんだよねという理解(共通感覚の獲得)によって、自分の殻を脱出できる。
 と並べたら、青春学園物になるかな。そういう意味では、新鮮さとか深い感動とかはなかった。
 
 在日朝鮮人であることの(被差別の)悩み、それが日本人の中では絶対的なものではなく、他の様々な悩みと相対的に並べられるものでしかないことに気づく。
 「私らは日本人と違う。背負っている物が違うんや!」
 「私ら、もうそろそろ自由になってもええやんか」
 「嫌になって逃げてきた。差別されると思っていたけどみんないっしょや。いっしょに文化祭やらせて」
 
 
 在日に関する歴史的問題は書かれていない。なぜ在日という存在があるのか、なぜ差別されるのか、をつきつめるわけではない。差別反対という主張でもないような…。
 
 竹島が出てくるが、それに個人を重ねるのはどうか。「竹島竹島だけの物やねん!」が唐突。他の登場人物(日本人)の誰も竹島のことを言っていない(と思うが)のに。独島と言わないのがミソなのか? しかし、大阪の高校生も「総連」の名を聞いたことがないのか。
 
 「一つはみんなのために、みんなは一つのために」 一つとは何か?
 
 朝鮮学校には規律があるが自由がない。日本の学校には規律もやる気も統一感もないが自由がある。自由には責任が伴う。自分の一生には自分が責任を持つしかない。