課題の中間点検日

 今日は夏休み課題の中間点検日。部員たちはなんとか出せたようだ。
 
 午前中部活、スタッフ作業の日。パネルを建て回してみるが、やはり隙間が大きい。解決すべき事は多い。正面部分について、考えながら作業するので、良いやり方が後から閃き、やり直すことがある。
 昨日までは突発的な雷雨があったが、今日は暑いばかりだった。昨日の至近への落雷?には驚いた。
 
 
 高校演劇について考えていることを書きます。
 まず「演劇」であること。
 「高校生」であることが先にあるのではないだろう。
 バスケットボールの試合で、バスケ部チームが非バスケ部員チームと試合して負けることはないように、演劇部の劇が非演劇部員による劇を凌駕しなければ演劇部の存在する意味がない。その両者の劇には明らかな違いがなければならないのではないか(そうは思いませんか?)。
 
 何が違うべきなのだろう?
 それは、毎日何を練習し何を稽古しているのかという、演劇部活動自体を問うことにもなる
 HRで劇を作る、学校をあげて劇を作るというようなこともある。それも感動的なことではあろう。
 一方、毎日毎日、何年も何年も活動している演劇部は、そういう一時的?な感動にとどまることは出来ない。
 では何を目指すのか?
 「どういう劇が大会で勝ち抜けるのか」を考えて、勝ち抜くための活動をするのか?
 大会がある以上、それも立派な目標である。
 しかし、この時重要なことは、大会優秀校の劇を必ず全国の演劇部が見習うということだ。審査結果が全国の演劇部活動に大きな影響を与える。審査が、毎年一定の基準によってなされるならば、高校演劇は次第にその基準に沿って、理想(というものがあればだが)に向かって進歩するのではないか。
 「こういう劇が最高なのだ」と示す時、その理由を基準に照らして明示するべきだ。そうすれば全国の演劇部はそれに沿って活動するのではないか。
 もちろん、そんな基準は不要だ(演劇はもっと自由であるべきだ)という考えもあるので、実際にはこういう風にはなっていないだろう。
 
 もし仮に毎年違う審査員が(同じ方もいますが)、「演劇部として持つべき基底部分の如何」よりも、何か別のものによって選ぶとしたら、全国の演劇部活動はどうなるのだろうか(少し舌足らずな言い方ですね)。
 また、ブロック大会、県大会、地区大会とそれぞれの審査はどのような基準で行われているのか。その基準が地区から全国まで一貫しているのか。各段階での審査基準がそれぞれ違っているとしたら、全国規模の大会の意義、有効性、価値が問われることにならないか。
 
 いや、大会の審査がどうであろうと、各々の演劇部活動は当然成り立つわけで、
自分たちの信じる基準に従い、自分たちの創りたい劇を創ることを第一とし、大会入賞を目指すことを最優先にはしない。そう覚悟すればいいだけのことだ。その信じるものが受けいれられたなら、大会成績もついてくる、と。
 ここで終わればいいのだろう。
 だがその場合、信じるものは人によって違う。としたら、どうやってそれらを比較審査するというのか。その審査にどういう客観的基準があるのか。単なる印象批評(趣味好悪)に過ぎないのか。
 ああ、循環してしまいます。これを明解に説明できる人はいるのだろうか?
 
 では「高校生」であることを先にすれば? その場合の劇は、演劇部の劇であろうと非演劇部の劇であろうと、あまり違いはないことになるのではないか。非演劇部の劇が演劇部の劇を凌駕することさえ考えられる。
 「高校生」らしいとはどういうことか。若さ(≒未熟)、純粋さ(≒無知)、勢い(≒単純)のあることがそうなのか。高校生に受けいれられる(分かりやすく、笑えて、トレンディな)ことが重要なのか。
 
 意を尽くしません。また改めて。