続「トシドンの放課後」一つの演出

 職員会議の結果進級できないことになった平野は、自分を否定的に見、将来を悲観して孤独と絶望に落ちてゆく。茜の口癖だった「関係ない」が平野の口から発せられる。
 教師に「甘えるな」と叱責され、彼氏からは拒絶され、絶望していた茜を、なんとか持ちこたえさせたのは平野だった。その平野をなんとしても救わなければならない。いや、茜を立ち直らせたものは、本当は、茜の心の底にあるトシドン(父)の教えだったに違いない。どんなに厳しい状況でも人間は毅然として生きていかなければならないという教えが幼児の頃にたたき込まれているのだ。その種が今、芽吹いた。
 茜を突き動かすものは怒りである。弱い者を襲う理不尽な人生。しかし、そんな中でも人間は人間として、泣きながらでも生きていかなければならない。
 絶望に落ちた二人が、お互いの力で(トシドンという、人間の生き方をたたき込む存在のおかげで)再び歩き出す。二人の間には深い共感が生まれる。ラストの、二人が見つめ合った後この部屋を去るシーンに不思議なカタルシスが満ちるのはこの深さのためである。
 
 昨年の本県大会でこの作品を上演したある部は、ラスト、一人残りトシドンの面を置いた茜が、何を思ってか駆け出していくところで終わった。それは職員室に平野のことで抗議しに行ったという設定なのであった。さて、その演出は正しいのか、あり得るのか、あってもいいのか。
 劇中のさだまさしの曲についても、私は「道化師のソネット」がいいんじゃないかと思うのだが、この部の上演では、曲名が思い出せないが、「~味噌汁つかない」という歌詞の曲だった。これどうなんだろう。
 
 生徒の及ばないところまで脚本を深く読み込み演出に反映させるということが顧問の大きな仕事の一つではないかと思うのである。深く読み込める脚本は、やはりすばらしい作品である。『季刊高校演劇』200号記念エッセイ特集号の上田美和先生の文章を読むと、名作はインスピレーションによって生み出されるということがよく分かる。