夏の日の昼から → 孟子まで

 暑い。外出すると日陰ばかりを選んで歩く。真昼だと影は短いので塀際を歩くことになる。太陽の光が万民に平等に降り注ぐものなら、日陰も誰のものでもないだろう。これはうちの家の影だからといって文句を言われることはない。雨宿りと同じだろう。などと買い物帰りに考えながら歩いてきた日曜日。
 
 
 
 以下、ろくでもないことを書くので読んでもすぐ忘れてください。
 
 某国の内戦で、兵士が敵側の死体の内蔵を食うという映像が話題になった。自分は見ていないのでどんなものか知らない。
 同じ人間同士なのに、「敵」になった時点でこのような残虐性が歯止め無く出て来てしまう。
 恐ろしいことだ。誰もこういう状況に置かれないことを切に望む。
 
 以下、引用。出典は後に記す。
 
 …逃げおおせた警官らは運が良かった。暴徒はおよそ50人の他の警官を捕え、4日後までに38人の警官が殺害された。しかも彼らは単に殺されたのではなく、拷問にかけられたり、火あぶりにされたり、生きたまま皮をはがれたりしたのである。のみならず当人が死んだ後は、家や家族が襲撃にさらされた。反徒は知事の家も含め、町中の役人の家を略奪した。後に外国人が、目をえぐりとられ、四肢を切り刻まれ、全身には数百カ所もの刺し傷を負った警察官たちの遺体を見つけたとき、彼らはこの国の人の野蛮性を物語るものであると信じた。…この暴力は理由もなくやみくもに用いられたものではない。それは憎悪の対象となった役人に向けられたものであって、彼らの多くは、自国の人に対し、似たような残虐行為を行なった張本人たちであった。外国人が攻撃の対象になった例は1件もない。
 
 …2000人の反徒が警察署を襲った。反徒は警察官を監禁し、地方警察および政府の役人の持ち家86軒を完全に破壊した。
 
 …約2000人の反徒が郡警察署を襲撃し、警察署長の手足を切断して殺したほか、部下7人を撲殺した。反徒は警察署を占領し、そこにあった武器を入手した上、地域の警官、役人、富裕な家族が住む50戸の家を次々に破壊した。
 
 …この地域の政治オルグはおそらく、1927年の湖南省における毛沢東と同様、農民の暴力がカタルシス的に迸り出た力のすさまじさを、驚きをもって傍観していたに違いない。
 
 
 引用終わり。
 出典は明石書店朝鮮戦争の起源 第1巻』著者、ブルース・カミングスの第3部第10章。
 一部、意図的に固有名詞を省略したりした。外国人とはアメリカ人である。
 
 さてこの事実はいつ、どこで起きたことか。
 1946年10月の大邱である。36年間の日本による支配が終わり、現地の日本人が全財産を放棄して退場した1年後のことだ。
 
 この部分を読んでどのような感想を持つか。
 日本と「親日派」がどれほどひどい支配を行ったか、それに対する人々の恨みがいかに深いかの例として理解するか、あるいは今、某国の独裁体制下で起きている農民反乱の行く末を予感させるものとして見るか。
 自分は、被支配階級である農民の、支配階級である役人、富裕層へのすさまじい憎しみを感じる。
 
 さて暴力的革命で、農民からの搾取の上に成り立っていた地主階級を徹底的に解体、排除した国々はその後どうなったか。集団農場、計画経済…。しかしノーメンクラツーラが特権階級として登場した。支配階級が交代しただけだったとも言える。 
 国民が平等に貧しくなった時代にも、体制の必然として内部闘争を行い続けたが、今や一党独裁体制はカリスマ的指導者(暴君)を産まなくなった(集団指導体制にした)代わりに、内部矛盾を権力闘争として解消することができなくなってしまった。階級のない理想的社会であるはずの国家がこのような状況に立ち至ったのはなぜか? イデオロギーの別にかかわらず、普遍的な人間性の中にその源泉があるからではないのか。
 
 『孟子』梁恵王章句上
 王何必曰利。亦有仁義而已矣。王曰何以利吾国、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、上下交征利而国危矣。
 
 既に紀元前数百年という時代に喝破されているではないか。