20190608

 習近平中国国家主席は、毛沢東主席の時代を範としているようだが、王輝の『天津文革親歴紀事』 (邦題『文化大革命の真実 天津大動乱』)によると、毛の遺言として次のように書かれている。
 「一九七六年、(毛は)華国鋒らを集めて、自分の生涯で起こった二つの重大事件について述べた。「私は一生で、二つのことを行った。一つは、蒋介石と闘って、海上の小島に追いやったこと。抗日戦争を八年戦って、日本人を追い返したこと。このことについては、異議のある者はそう多くないだろう。何人かは私の耳元で、ごちゃごちゃ言うが要はあの島を早く取り返せばすむことだ。もう一つは、あなた方も知るように、文化大革命を発動したことだ。このことを擁護する者は多くなく、反対する者は少なくない。この二つはどちらも終わっていないので、この「遺産」を次の世代に渡さなければならない。どうやって渡す。平和裡に渡せなかったら、手荒に渡すことになる。うまくいかなければ、「血の雨が降る」ことになろう。あなたがたはどうする。天だけが知っている。」
 習近平は「血の雨」なしに、この二つを受け継げるのか。

 鄧小平は、10年間の文革で疲弊した中国を、改革開放によって立て直した。かつて劉少奇主席とともに目指した方向だったろう。走資派と批判され失脚した道。
 ソ連式の集団農場や国営企業は潰れたが、党幹部たちがその国有財産で私腹を肥やし、企業家となった。何のことはない、かつて打倒した地主階級に、自分たちが収まったのだ。毛は7~8年に一度は文革をしなければならないと思っていたが、それほどに資本主義の「悪」は根絶できないのだった。
 反右派闘争、大躍進運動文化大革命と続いた混乱の末に、困難の中で、民衆とともにあった、清廉だった共産党員も、人間性を破壊され、姿を消した。利権を独占する幹部たちは富裕層となり、身分的に差別される農民は変わらずに貧困である。

 そもそもロシア革命当初、レーニンたち共産党は、農民を都市住民の食料を徴発する相手としか見ず、改革の末に生まれた中小地主を敵視して、たとえ餓死者が続出しても、一切の余剰食糧を残させなかった。共産党は都市住民、工場労働者の味方ではあっても、農民の味方ではなかったのだ(このため、ソ連の農業生産は大打撃を受けた)。 
 銃(暴力、赤軍)の力が自国民を支配する。革命は銃身から生まれる。

 鄧小平も、30年前には北京で民主化を要求する学生や市民に対し、人民解放軍を使って1万人とも伝わる非武装の人々を虐殺した(一部では軍同士の撃ち合いもあったようだ。)
 党の独裁は何をしてでも守らなければならないのだ。

 今や豊かになった中国は、電子情報網を使って国民を監視し、管理・支配を強化して、デストピアと化している。違反も善行も点数化され記録されて、その人の評価に使われている。人間は、永遠にこのような管理、監視と恐怖の下で暮らせるものだろうか。独裁者は、国民を永遠にこのような管理下におけるものだろうか。
 それは、歴史を見れば明らかであろう。