前記事への補足

 前回書いた記事について、別の本の記述を引用してみる。
 
 引用開始
 
 1946年10月2日、大邱警察署に数千人の高校生や大学生、労働者、市民が押し寄せました。デモ隊の前には、前日鉄道労働者のストライキで警察と衝突して亡くなった労働者の棺がありました。彼らは警察の発砲に抗議し、「警察の武装解除」を要求しました。警察署は怒った民衆たちにより占拠されました。「米か死か」とデモを繰り返してきた市民たちは、警察や地主を襲い、大邱市全体が無政府状態になりました。
 数時間後、米軍の戦車が進駐し戒厳令が宣言され、大邱市は治安を回復しましたが、このようなデモは大邱周辺の慶北地域から全国まで広がり、数百万人が参加しました。デモに参加した人々はほとんどが労働者、農民たちでした。
 彼らは「米の強制徴収に反対する」、「親日反民族行為者を追い出せ」と、要求しました。アメリカ軍政の食糧政策の失敗によって多くの人々が飢えて、農民たちは食糧を強制徴収されるなど、ひどい目にあいました。またアメリカ軍政は解放以後、民衆たちが作った多くの組織を認めず、彼らの社会改革要求を拒否しました。一方、植民地時代の警察と官僚たちを再び採用し、アメリカ軍政を維持しました。1946年10月のデモは、そうした状況に対する民衆たちの鬱憤と怒りの爆発でした。
 
 引用終わり
 出典 明石書店「日韓共通歴史教材 学び、つながる日本と韓国の近現代史」日韓共通歴史教材制作チーム、編 第4章
 
 9月に起きたゼネストはソウルに波及し、警官を含む大がかりなスト破りと衝突した。大量の逮捕者を出し、終わるかに見えた時に起きたのがこの大邱10月抗争である。「参加者」は高校生、大学生、農民、労働者、民衆とあるが、背後には共産党他の指導があった。
 
 この「日韓共通歴史教材」は、韓国の大邱市と日本の広島市の高校教組の人が中心になって編集されたものである。従って、全国的通史というよりはそれぞれの地域を中心とした記述になっている。その結果、全体的な歴史把握という点では不十分なところがあるのは否めない。だが両国の歴史認識の差異を越えて、共通の客観的事実を記そうという意図とすりあわせに費やした努力は買う。さすがに観点は偏していると思うが。
 今、ひとつ引っ掛かっているのは、日韓併合に関する記事で、97頁にある日韓併合条約の写真である。右側の写真に付けられた説明は「日韓併合条約(純宗の署名がない)」である。しかし、そこには「坧」という純宗の署名があるし、「勅命之寶」の印が捺してある。そして、日付が「隆熙三年十月二十八日になっている。これは日韓併合条約とは別の書類であろう。どうしてこんな間違いが起きたのか?
 あるいはこれは、正しい書類ではこのようになるはずだという例としてあげたのか。とすれば確かに左の写真にある勅諭(「隆熙四年八月二十九日」で日付は正しい)には「勅命之寶」の捺印はあるが署名はない。
 しかし、この1週間前、8月22日に出された李完用への全権委任状は純宗の署名入りで「大韓國璽」の印が捺してある。
 
 朝鮮国の国璽について少し検索してみたが、1897年の大韓帝国建国以降、数多くの種類の国璽が作られたようだ(それ以前は清国から与えられていたらしい。漢倭那国王印のようなものか)。一部はハーグ密使事件の際、各国に宛てて書かれた高宗の親書に捺された「皇帝御璽」の印が知られているが、大部分は所在不明なのだという。一部、朝鮮総督府に渡されたがマッカーサーにより韓国に返され、その後朝鮮戦争の中で行方不明になったという記事も見た。
 
 なお、韓国では戦後何度か新しく国璽を製作している。その印面は漢字でなくハングル表記である。