昨日は雪、今日は晴れ

 昨日は断続的に雪が降り、風も強かった。今朝は晴れて、夜、屋根や車の上に残った雪が溶けて流れ落ち、春先のようだった。職場では昨日から雪囲いを組む作業が始まっている。
 
イメージ 1 昨日の様子
 
イメージ 2
 
 だいぶ、山の白くなる所が近くなってきたが、平地はまだ地面が暖かいし、気温も零下にならないので雪が積もることはない。
 
 
 閑話休題。なかなか県大会生徒講評委員会のまとめが来ないので、うちのだけ掲載してしまうことにした。すみません。しかしこれでもずいぶん節がこけてしまっている。なお、遅れているのはK藤先生のせいではないので念のため。
 
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 上演1 山形西高校  きょうだい
 
 私がこの演劇で特に印象に残ったのは、あやかの夢の中の場面です。姉のことで悩んでいる綾香の心の闇が生々しく演じられており、鳥肌が立ちました。
 さて、この演劇の題名である“きょうだい”ということについて講評委員会で、あやかと姉は姉妹なのに“きょうだい”と表したのは、劇の伝えたいことは、血縁関係だけでなく、自分の心の思いや過去を知っていて、共有できるすべての人のことを“きょうだい”と表したかったのではないか、という意見が出ました。また、題名をひらがなにしたのは、ひらがなの方がやさしい包み込む感じがするためではないかと思います。そのような意味の“きょうだい”の人生を、うまいだけの「セリフ」ではなく、今そこに現実があるような「セリフ」で全身を使って表現しているキャストの演技に共感し、感動しました。終盤での姉が死んでしまってからの展開はすごく緊迫感があり、ドキドキしながら見ていました。あやかが姉を亡くしてしまったのに泣けなかった、という部分は人間としての感情がにじみ出ていたと思います。ここで私は、姉が死んで、心の重みが取れて、軽くなったから泣けなかったのではないかと思いました。しかし、委員会で話をしたところ、重みが消えたのではなく、後悔や罪悪感となり、記憶となり、重みが大き過ぎて泣けなかったのではないかという意見も出ました。また、心の闇が見えた場面で、自分の嫌な感情があることに気づいてしまったから、悲しむことができなかったのでは?という意見も出ました。
 この演劇はそういった人間の心の深い闇の部分を知りながらも、乗り越えて強く生きていかなくてはならないことの大切さを教えてくれた劇だと思います。人間は一人では生きていけません。これは私の考えですが、一人暮らしをして、一人で買い物しても、その物を作った人と間接的につながっていると思います。今、こうして生きていけているのは、人々が支えあっているからだと思います。そういった、人との関係性の重要性や大切さを再確認できたと思います。
 演技全体では、本当にいうことがない、勢いのある演技だったと思います。音響や照明とのタイミングのずれもなく、息が合っていて素晴らしかったです。その中でも驚いた場面は車いすから人を落とすところです。乗っている人も、引いている人も怖かったと思いますが、演技に躊躇が一切感じられず、見ている方を心配させるような緊張感のある演技でした。少女たちの心情描写だけでなく、装置もきれいで、蝉の鳴き声など細かいところまで現実感が出ていたと思います。
 私たちにいろいろな経験をして色々考えながら成長して、明るい未来に向かって生きていけという生命と人生についてのメッセージを受け取めることができた作品だったと思います。
 
 生徒講評委員:山形県立高畠高等学校 TMさん
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 とてもよく観ていただいてうれしいです。ご苦労様でした。
 
 講師の講評文も全出場校分もらって読んだ。それで思ったこと。
 自分のところの芝居は主観が入りすぎて自分ではよく見えなくなっている面があるかもしれないが、人様の芝居を観るときはそれなりに客観的に観ているはずだ。
 その前提で読んでも、ひとつの芝居を評価するポイントが、自分と人ではずいぶん違う、ということにあらためて(以前から感じていることではある)驚いた。自分としては良くないと思ったところが講師からは高く評価されたりしている。これはもうどうしようもない。芝居の基本は台詞のキャッチボールであるというような基本的認識においてはほとんど同じなのだが、個別の芝居に対する感想、評価になると大きく食い違ってくるのはなぜか。
 自分は、ある上演の装置が未熟で安全性も低いと感じたのだが講師はその出来を評価していた。その装置上でのラストに近い重要な場面は照明が暗くてよく見えなかったのだが、それも問題ではなかったらしい。
 また別の上演では、ほぼ何もない舞台に「川」を表現したのだが、その仕方が秀逸であると評価されていた。自分にはそれはあらずもがなの表現と思われた。
 ここで自分は他校の上演をけなそうなどと思っているのではないので、その点ご了承ください。人と自分との違いを具体的に述べたいだけなのです。
 人が何に感動するかは人により、時により、物事によるとするならば、もう一度観て同じように感じるかどうかも保証できない。あれ、こんな芝居だっけ? となるかも知れないのだ。偶然の面白さや、場の雰囲気という要素に大きく影響されるということもあるが、それらに期待しない(というと語弊があるが)でも十分な成果を得るために稽古を積むのではないのか。
 自分は自分のこういった考えや感覚の当否?を確かめるためにも東北大会を観に行くつもりだ。
(一昨年もそんなことを考えていたのだが、その時は生徒講評委員会に付き添っていたので、今年とは立場が違う)