カラス

 今日は墓の掃除をしに行った。明日法事なので。我が家の墓ではなくて実家の墓である。だがもう実家に墓を守る人はいない。最後に家を守っていたのは伯父に嫁いできた人で、その人の七回忌である。
 雨模様の中、墓の草をむしっていると頭の上がブワッとする。目を上げると近くの墓の上にカラスがとまった。こいつが自分の頭をかすめて飛び降りたのだ。いたずらしたに違いない。こっちを見ているので、「こら!」と言うと飛んで行った。カラスは嫌いではないが、なんか妙な感じだった。
 
 
 DVDで黒澤明の『生きものの記録』を見る。昭和30年、大気圏内での水爆実験が行われていた時代。水爆と放射能への恐怖から、日本を脱出しブラジルへ移住しようとする老人の狂気を描く。
 黒澤明関東大震災東京大空襲を経験しているはずなので、そういった破滅の光景が彼の脳裏に焼き付いていたのだろうと感じる。
 自分ら戦後世代は、核戦争で滅亡することもなく、放射能を浴びて死ぬこともなく、ここまで生きてきた。あの老人の(黒澤の)不安は杞憂(あるいは被害妄想)に過ぎなかったと言うべきか。
 しかし、核兵器は抑止力として留保しつつ、ナパーム弾、枯葉剤劣化ウラン弾白燐弾クラスター爆弾、対人地雷等々、人間を殺傷する手段は限りなく進化してきた。戦後の世界は、日本以外では戦争の連続だった(である)。多くの人、兵士に限らず、老人、女、子供たちも悲惨な死を強いられた(ている)。同じ人間としてその恐怖と怒りを共有することは全く正常なことであろう。それなのに、人々は「敵は殺せ」という考えを捨てられないでいる。
 東日本大震災後の今、この映画は、放射能への過度な怯えから被災地を逃げ出す人、あるいは極微量の放射能でも起きる風評被害、また原発を全廃しようとする動きなどを重ねて見ることもできるだろう。今の自分にはそれらを肯定も否定もできないのだが。
 
 
 修学旅行後、2年生と1年生一緒の活動が再開。1年生の選んだ台本でアトリエ公演を行うことに一決し、読み合わせを続けていたが、今日、キャスティング決定。2年生はやはりどんな役でも台詞として聞ける。1年生はまだまだ台詞になっていない感じがする。でも、これでいて進級するといつもちゃんとなるんだから、高校生ってのは面白い。
 装置も顧問の設定に従って準備されている(もう考えないでいられないのです)。「ギラギラの月」に似た配置のようだが、障子の開閉があるので、その枠を作り始める。こういった物作りのノウハウは継続して作らないとすぐに途絶える。上級生が覚えているうちに作ることで下級生も楽に取り組める。
 調光はライトピューター1台(とトライダック1台)でサスを、トライダック2台でスタンドのピンスポット2本をコントロールしたい。サスは、今の両サイドに、前に下げていた正面も加えて、コの字型にしようかな。
 音響はすでに選曲に入っているようだし、期末テスト前休みに入るまでに立ちができるかもしれない。
 
 2月の遊学館冬季公演の台本も鋭意選択中。決まり次第、上演許可をお願いしなければ。4月に定期公演だから、県大会以降、2か月ごとの上演になる。本校のような高校ではこれが限界である。
 
 県大会生徒講評委員の講評についてK藤先生に催促したら、内緒でうちの分だけ見せてくれた。内緒なのでまだ公表できないが、高校生にきちんと理解してもらって、十分に感動してもらって、欲求不満が少し解消した。
 うちのあの作品で優良なんだから、最優秀で東北大会に出る作品っていったら、どれほど素晴らしいか、山形県高校演劇のレベルの高さをご推察ください。(すみませんちょっとだけひねくれています。)