次の芝居

 宮城県大会の結果、名取北高校が東北大会出場。確か安保先生のところだったはず。転勤されて何年目だろうか、おめでとうございます。これはやはり秋田に行かなければならないか。
 
 12月のアトリエ公演(部室での公開練習)は1年生が演目を決め、明日から復帰する2年生とともに作っていくことになる。台本が決まったらスタッフは何から始めるか。必要な物を書き出していた。道具類は手近にあるもので間に合わせようとするから、もっと意識を高く持てと言う。まあ自分も結構学校にある物で間に合わせているのだが。キャストにはできるだけ気持ちよく演じてもらえるように気遣うのがスタッフだろう。
 
 舞台は居間と縁側という設定だ。部室半分にどう設定するか。部活後、自分でエクセル上に描いてみた(ということはまた平行か)。『ささやき』や『ギラギラの月』で使ったパネルもあるし、6畳間のセットが組めそうだが、彼女たちにまた障子の枠を作る気があるかどうか。
 
 照明は夏の日の午前、午後、夜。昼・夜の2回路でいくか。昼を上手下手で違う色を入れ、朝と夕の差を出すか。トライダックが3台使えるようになったので回路を増やせるのだ。
 
 2月の遊学館公演の演目は未定。
 
 
 創作脚本の芝居は、全くの初演だから未成熟な部分があるのは否めない。次の機会があれば少しは良くなるかもしれないので、もうチャンスがないのは非常に残念である。前にも書いたが、高校演劇は役者である生徒が毎年入れ替わり人数も変動するので、同じレベルで作れる機会は二度とない。何年か後にまた人数と適役がそろったら再演できるかもしれないが…。
 
 どこかでどなたかが書いていたが、自分で脚本・演技・演出を「解釈」してしまうと、それで「表現」できていると錯覚してしまう、というようなことがあった。確かに、自分の目にはそう見えるのだが、観客の目には見えないということがあるのだろう。自分は説明無しで分かるのだが、観客は説明されないと理解できない。これが「観客の理解力を越えている」ということなのかもしれない。
 もっとシンプルにかー。60分間を使ってどれだけ登場人物の心情を深く感じてもらえるか、主人公が号泣するにしても、そこに至る経過、そこに含まれる深い複雑な思いをいかに共有してもらうか。そのためには一見関係ないようなエピソードを重ねていくというやり方をここ数年してきた。でも、…テーマ至上主義になっているのかなあ。いや拙いだけか。
 他校さんの芝居を観ていて、役者の個性というか、演技とは少しずれたところにある、役を越えた生身の高校生の圧倒的存在感が観客をとらえるということにいささか羨望を感じたりする。これも芝居を評価する大きな要素の一つなのだと思うから。