照明の件で新庄に行く。無事終了。でもこれが高畠で上手く作動するかは不明。最後は手上げも覚悟しておく。プロの劇団はツアーで訪れる会館にあわせてデータをさまざまな形式で記憶して持ってくるのだということだ。
県大会まであと2週間を切った。今日は役者がそろわないので、あみだくじで役を決めて場練をしていた。人が変わるとまたおもしろい。人が変わっても話としてはちゃんと分かるので、脚本的には安定しているのだろうと勝手に思ったりする。
ラストシーンの台詞のタイミングを変えてみている。音楽と動きとかぶるので難しいが、良さそうなポイントもある。明日もう一度試してみる。
県大会ポスター(校内に掲示してある)
作品(脚本)を書く(創作)ということ。
少し前に、新体操部の顧問の先生と話をした。まだまだ若い人だ。
新体操の演技は顧問が何分間かの振り付けをしなければならない(出来ない人は出来る人に頼んで振り付けしてもらうしかない)。他の学校のチームの演技を見て、良いなと思うところを取り入れて組み立てるのだという。それは真似ではないかというと、同じことをやっても自分の所の生徒がやると全然違う風に見えるので、これでもいいかなと思うのだと。
しかし、あるとき一度だけ、振り付けしていていつのまにか出来上がっていて、自分がこれを振り付けしたのか覚えていないような状況があった。その時、成績が良かったのだと。
「降りてくる」という話なのか。「借り物の表現は駄目」という話なのか。
自分には自分にしか書けないものがあるはずだ。そのほかの物は捨てる覚悟がいるということだ。それで残ったものがどんなに小さくても、狭い世界でも、そこを掘り下げるしかないということだ。
どこを掘ったらいいのか。そこらへんを手当たり次第引っ掻いてほじくって、見込みがないと思ったら捨てる。それを繰り返していくと自ずと残るはずだ。何も残らないなんてことはないと信じるしかない。
その狭い所を、ただ深く深く掘っていく。
あとはいつか書いたような気がするのでやめる。
表現は普通で良い。奇をてらうことはない。表現(形式)のための内容ではない。普通の人間が普通に会話すればいいのだ。