9月も半ばなんだよ、暑いなあ

 職場近くの八幡様の祭礼も終わったが、まだ34~5℃という信じられない気温だ。昨日までは冷房の効いた館内にいたからまだよかったが、もう外は大変だ。秋物は売れないね。
 本県にはあまり台風は来ない。来ても、その勢力は南国で受けるほどのものではない。大雪や川の氾濫以外には自然災害の少ない土地なのだ。だからそれに合った人間性が育てられる。
 台風が東シナ海を過ぎて日本海に至り、いよいよ波高しだ。ベトナム、フィリピンの例を見れば、領海侵犯が国家的規模で行われようとしているのは明白だ。カオナシのように成長する国家が、資源獲得のためになりふり構わずやってくる。正しい理性ではなく、力を支えるための理性が用いられる。
 
 暴動に参加する人々の映像を見る。破壊の衝動に身をまかせている。日頃から心の平穏とは無縁な人々なのだろうと思う。壊された車や工場の持ち主や従業員にしてみればたまったものではない。こういう負の感情を養い爆発させる訓練をずっと積んできた人々は、最終的には飼い主をも噛むのではないか。しかし飼い主は彼らの生殺与奪の権(より強い暴力)を持っている。持ち続けなければならない。
 
 
 
 地区大会、生徒はよくやった。練習でのレベルを維持して上演できた。観客の集中度も良かった。後半、泣いていた人もいた。幕が下り始めるとすぐに拍手をいただいた。県大会にも推薦していただけた。
 
 多くの問題を同時に描きすぎているという評。自分は、この作品から3つの別々の作品を書けるだろうという判断を否定しない。しかし自分はそうしたくない。60分の芝居にできることは単純な問題の提示とその解決だとは思わない。60分の中に、より重層性を持ち込みたいのだ。より深く感じ考えるために。
 そんな小難しい芝居はごめんだという方も当然いるに違いない。疑問符だらけで芝居に入り込めないという方もいる。それは大変残念なことだが、一方では今の自分にはこれしかやれないので仕方がないとしか言いようがない。観客に理解できないものを作ってどうするのか。いや「理解」という言葉が、「今観たことを、今、自分の言葉で説明できる」という意味で使うなら、そんなことを絶対視してはいない。言語化できなくても、感じていただければいいのだ。心の底に何かが残ればいいのだ。
 こんなことを考えるようになったのは、やはり年齢のせいだろうなあ。前任校まではずーっと県大会止まりだったが、どうやったら抜けられるかなんてあまり考えなかった。最近は考え出したが、同時に脚本に対する考え方も変わってきた。
 ウエルメイドな話とかエンターテインメントとか、「おもしろい」、「すばらしい」作品を作り出す才能や、技術力がほしいのではなく、作家性というか、人間を描くというか、なんか気取っているようでうまく言えないのだが、たとえば台詞のやりとりが心のやりとりであるような、そこに人間の生の深みが見えるようなものが書きたいのだ。(言ってて恥ずかしいですね、もうやめよう)
 
 今回の作品は障害児の問題を扱っているので、いろいろとご意見をいただいた。
 母親の我が子の死に対する反応について、母親はああいう言い方はしないのではないか。父親の言い方ではないか、と言われた。うむ、脚本のいたらなさ、演出の不足である。でも台詞を変える必要はあまり感じていない。
 
 障害を持つ子供のいる友人を持つ方からは、「傷ついた」と言われた(非難の調子ではなく)。
 そうだ、自分も深く傷ついていたのだ。だからこそ書いたのだ。誤解を恐れずに、失礼を顧みずに言えば、その方がご自身の子供に、あるいはきょうだいに障害者がいたなら、またちがう感想を持たれただろうと思う。友人の境遇に同情する涙とは少し違う涙になるのではないか。(その方を批判しているのではありません)
 
 この作品を書く気になった契機の一つに、劇団山形さんの上演した『くちづけ』を観たことがある。知的障害を持つ我が娘の首を絞め、自分は末期癌で亡くなる父親の話である。あのとき涙を流した自分の心は傷ついていただろうか。
 
 いじめを描く作品も多いが、実際にいじめや暴力被害にあっている子がそれを観て何を感じるか。多くの作品は、ただ社会問題として扱うばかりではないのか、本当に当事者の心に寄り添うものが果たしてどれほどあるだろうか。
 いじめを扱った作品を観て、「傷ついた」という場合、それは問題を中途半端に扱い、当事者の心を表面的な描写でしか描けなかった場合ではないのか(陰惨な暴力を再現しろなどと言っているのではない)。
 
 無理心中は犯罪だろうが、それを人間の根本問題として描写した作品は観る人を傷つけたか。
 いじめ、暴力を社会問題として描写した作品は、いまそこにいる被害者個人の心に何を残せたのか。