第6回春季全国高等学校演劇研究発表会 5

 この土日は部活休み。みんな疲れがたまっているようだし、課題も大変なようである。遊びたくもあろう。うちの生徒にとって、自分の自由に出来る時間はことさら貴重である。
 顧問は部活がないとてきめんにグータラしてしまう。もそもそと新年度準備にかかっている。
 
 夕べは積雪があったが、今朝からは晴れて穏やかな天気である。東京は昨日強風でひどかったらしい。
 
 春フェスの観劇感想を載せているが、読み返してみると、自分でもずいぶんダメ出ししているなあと思う。読んだ方は、なんでこんなことを、とあきれるかもしれない。自分の好みに照らしての感想だから、装置とか考証に偏しているのはご容赦いただきたい。
 
                                                             
 
『「いただきますと言ってくれ」』 作、北見北斗高校演劇部・新井 繁 北海道北見北斗高校
 
 昨年の全国大会で『ぺったんぺったん』を上演した学校である。
 保育園児向けに戦隊ものを上演しようとしている演劇部。出番前の楽屋と本番の舞台を、仕切りのパネル(キャスター付き)を左右に移動させることによって転換している。転換の過程はそのまま見せる。面白い仕掛けだ。両者は基本的に白と黒に色分けされている。
 後方に、開き脚と平台で作った高台が袖から袖まで続いている。けこみはない。
 戦隊員の衣装はうまく作られている。ベーコンの赤、ふわふわ卵の黄色、野菜の緑というわけで、朝ご飯の大切さを教えるという内容だ。
 2年生の1人が不登校摂食障害的設定。舞監の子が寄り添っている。この子に、最後に「いただきます」と言わせることで芝居は終わる。気持ちの良い(分かりやすい)流れである。
 悪ボス役(「朝ご飯いらない」と子どもに言わせる恐い奴)が腹痛で本番中に離脱、1年生の主役(レッド)はパニックで台詞が出ず、劇崩壊かという時、飛び入りで会場事務員の女性が悪役になり、不登校の女の子が(主食の白米)ホワイトとして登場。てんやわんやの騒ぎの中、ブレックファスト・アタックが炸裂し、悪玉退散。5人合掌して「いただきます」で幕。あれ? 5人目(舞監)は何色だっけ?
 イエローの妹が見に来ているという設定で、客席後方から「ホワイトー、ホワイトー!」と呼ぶのが効いた。思わず、ヒーロー・ショーに熱中する子どもの気持ちになって観てしまった。好きだこういうの。
 
 楽しいお芝居であった。基本はコメディーで、正面から不登校摂食障害を扱っているわけではない。
 
                                                             
 
 『青春リアル』 作、コイケユタカ 埼玉県立秩父農工科学高校
 
 昨年の全国大会で『少年神社』を上演した学校である。
 3間半の間口に区切った演技空間、背後に不規則に重なり合うパネル。白い部分はスクリーンになり、動画投稿サイトへの同時コメントの文字が流れる。下手寄りの大きい部分にはカメラでとらえた実際の映像が同時中継で映し出される。
 中央(重なるパネルの隙間)から登退場し、袖からの出入りはない。
 パネル前には、これも不規則に様々な高さの平台が置かれ(コンクリ打ち放しのようなけこみ)、教室の机とイスが正面向きに設置されている。ここは生徒会室。
 集まっている生徒会役員はいずれもやる気が見られない。会長は、ややまともかと見える。顧問の先生にもやる気がない。やがて不登校の生徒の話題になり、その子が登場する。その子は目の部分にだけ穴を開けた紙袋をかぶっている。紙袋の象徴するものは明らかであり、この演出で作品のトーンが定まる。
 転校生が新に生徒会役員となる。この子の転校の理由は、前の学校での、いわれのない中傷からのいじめである。そのことを紙袋の子に伝え、勇気をもって袋を取るように説得する。しかし、その場面は盗撮されていて、動画投稿サイトに中継されているのだった。
 すべての生徒が「役割」を演じている(それは紙袋をかぶることであらわされる)、という言い方。若者の、学校(社会)への適応不全を示しているようだ。
 「リアル生徒会室」のアクセス数はそこで起きる出来事によって増減する。
 転校生が生徒会室の秘密を暴いて中継は終わる。めでたしと思いきや、実はすべての発端は紙袋の少女だったと明かされる。みんな役割を演じる方が生きやすいのだという。こうして転校生にいじめられっ子の役割(紙袋)がかぶせられる。しかし、生徒会役員の1人が自殺を実況中継する。みんながやめなければ自殺すると。このリアルに生徒たちは心から「死ぬな」と言う。しかし、張本人の紙袋の少女は「勝手に死ねばいい」と言う。その本音を偽らない言葉で逆に自殺は止まる。
 
 生徒の演技は実に達者であり、都会的というのだろうか、うまい。しかし、なんだろう、どこかテレビドラマを見ているような感覚がつきまとった。
 『少年神社』でも見せた舞台(装置・照明)技巧の高さ、プロジェクターから投影する技術に感心した。これが映像作品的に感じられる理由でもあったが(そういうねらいか)。
 この作品は「リアル」という名の「フィクション」であり、リアルだと思って観ていたらすくい投げを食わされる。こういうテーマを扱うにあたって、時代の先端で何が起こっているか、高校生の置かれた状況がこの先どうなっていくのかを先取りして見せるような作品作りも確かにあり得る。時代を写し出し、深層を抉る作品、それはあって然るべきであろう。その表現は必然的にSF的というか、非リアルになっていくのではないだろうか。

 しかし自分としては、観ていて気持ちの良いものではなかった(まったく個人的な好みの問題なのですが)。いじめの被害者の気持ちに寄り添うようでもなく、役割を演じているという感覚を持たざるを得ない一般高校生の(空虚な?)気持ちに寄り添うようでもなく、観客を突き放すようなラストの描き方は、少なくとも教育的(この言い方は微妙だが)ではないと感じた。
 あるいは最後の生徒たち(顧問の先生も含む)の、紙袋を脱ぎ捨てての叫喚は、そういう生き方〔役割を演じさせられる〕を拒絶する意思表示、あるいは拒絶しようもない状況に対する絶望からの悲鳴と考えられないでもないが、自分にはそう受け取れなかった。
 
 関連して、『渦の中の私』のラストシーンで、再び公衆電話が鳴り、ジュラルミンケースが置かれるという見せ方は、つまり、元に戻すというような、それまで観客の中に積み上げられたものを崩して終わりにするようなやり方だろう。そういうやり方もあるのだろうが、共感できない(『渦の中の私』は全体的にみれば共感できる部分が多々あったのですが)。以前このブログのどこかで触れた、人の善意を裏切って援交に自ら入っていく高校生を描いた作品にも通じる点だと思う。
 作品として、苦い現実を見せつけるのも確かに「あり」だろうが、では演ずる側はその現実にどう向き合うのか、まできちんと提示するように作って欲しいと思った(予定調和的にハッピーエンドにすべきだと言っているのではない)。