いわき日記 その四

 上演5 島根県立松江工業高校 「贋作マクベス」 作、中屋敷法仁
 
 よく知られ、上演される作品。以前、山形市内某高校が上演したものを観たが、今回の作品とは全く違っていたと言っても良いだろう。同じ脚本なのにどうしてこんなに違うのか。スピード感と密度かな?
 役者達の自由闊達な(好き勝手とも言えるか。「おっぱーい」だもんな)姿が気持ち良い。そして観客に対するサービス精神に溢れている(過剰とも言えるか)。
 とにかく笑わせていただきました。筋書きはみなさんよくご存じでしょうから省略します。
 ただ、お笑いだけでなく、「マクベス」の部分もしっかりと芝居になっていた。だからこそギャグが生きているのだろう。
 
 白い大きめのパネル。上・下の1袖に付いて2枚、さらに2袖について2枚が舞台に出ている。中割あたりに、半間ほどの隙間を残してパネルが並んでいる。(__―― ――__)のような感じ。パネルは全て布か紙が張ってあり、ホリゾントに色が入ると透ける。
中央の隙間に3尺ほどの高さの台があり、そこから前方に5段の階段が降りている。階段は下広がりである。両脇と踏み板だけでできている(中に支えがなく見通せる。下を役者が潜ったりする)ので、踏むと少ししなるが、危険ではないのだろう。台上に掛けてあるようだが、他に支えている物はない。
 階段の奥にもパネルがあり(少し背が高い)カガミの役をしている。袖からだけでなく、この階段からも登退場する。階段裏にスモークマシンとライトがあって、効果的に使われた。
 王様や貴族、将軍、マクベス夫人の衣装・小道具はよく作ってある。(しかし、マクベスは左利きだったのか…)
 立ち回りは結構できていた。階段も使っている。太刀打ちの音と斬撃の音が同じような気がした。抜こうとすると柄が取れ、柄と刀身を別々に両手に持って戦うというギャグもあった。
 衣装のまま馬役として登場。馬の頭をかぶって登場するのはよくあるが、ニンジンを被り物の口に入れたりする。さらに両方の鼻の穴からロープを出したりするのは意味不明だが、ばかばかしくて笑える。これを、悲劇マクベスを演じている最中にその横でやるもんだから効く。
 マクベス夫人の「新幹線で逃げなければ!」スマートフォンで切符予約。「大変です! 島根県には新幹線が通っていません!」には笑えた。
 みんな格好いい。島根県という地域性よりも都会的スマートさを感じた。3年生から1年生までいるが、みんな上手で、あまり落差を感じなかった。
 
 最後、部員たちの自己満足を否定する生徒演出に、マクベス夫人役の女の子が言う。王になったマクベスはなぜ楽しくないのか。自己満足していないからだ。名作だから云々でなく、自分が楽しくなければ観客も楽しくはないだろう。好きな事をやる、ただそれだけで楽しいのよ。
というような主張に納得させられてしまう。あれだけ楽しくやれたらさぞ満足でしょう。拍手。
 
 
 
 上演6 青森県立青森中央高校 「はしれ! 走れメロス
 作、畑澤聖悟 (太宰治走れメロス」、第29回全国高総文祭総合開会式シナリオ検討委員会「新・走れメロス」より一部引用)
 
 東北大会で観劇し、一度感想を書いている(お読みになりたい方は昨年1224日の記事をご覧下さい)。
 集団の動きが一層洗練されていたように感じた。一斉に走り出す時などの揃い具合は、体育部的なまでに一致している。そこに、すごさを感じる。
 最後のシーン。老いた担任教師の述懐に合わせて、主人公のシオリが中央で正面を向いて走るように変えられていた(東北大会では、最後のシーンにシオリは登場しなかった)。
でも、どうだろう。この述懐そのものがシオリの口から語られるべきではないのか、とも思わずにはいられない。このことについて少し考えた経過は以下の通りです。
 
いっそ、冒頭に走り続ける女性(大人のシオリ)を登場させるという手もなくはなかろう。インタビュー。「どうしてあなたは15年もメロスマラソンで走り続けているのですか?」「…友だちを助けられなかったメロスは、走り続けるしかないのです。」そこで回想になる。最後のシーンは、走り去るユキコに向かって叫ぶシオリか、冒頭に戻るか…。
しかし、こんなことは考え尽くされているのであって、その上で作者が書かなければならないものは作者にしか決定できない。批評する者は、時として作者の思いの深い部分を見過ごし、自分の理解の範囲内に持って行ってしまい、それこそが正しいように思ってしまうものだ。
級友を救おうとして挫折したシオリの胸中を、正面から観客にぶつけるのが主たる目的ではないのかもしれない…。
ユキコをいじめる生徒たち、それを黙認する生徒たち。そうしなければいられない生徒の人間関係。そのまっただ中にいる高校生たちと、教員の立場とでは受け止め方が違うだろう。教員側にはついに理解できない、対応しきれない状況があり、その中で苦悩する生徒たちを救うすべもない。教員側の絶望。畑澤作品でしばしばみられる、嘔吐せんばかりの凄惨ないじめ描写は、そこから来ているのではないか。とすれば、やはり最後は教員側からの述懐になるしかない、のかもしれない。観客がその述懐にいくら不満を覚えようとも。
シラクスの王様のように、真の友情、信頼を目の当たりにし、心洗われ救われる日の来ることを渇望しているのは、誰よりも教員自身なのだということであろう。最後の担任教師の述懐が、王様の言葉のように喜びにあふれる時は来るのだろうか…。
…これも違うかな。
 
こんなこと書いて、畑澤先生の眼光を思い出すと恐縮してしまう。
 でも、けれども、2度観劇した上で、名取北高の作品もDVDで観なおした上で、夏の全国大会はやはり「好きにならずにはいられない」なんだろうなあ、と思う自分なのでした。
 
 つづく