第6回春季全国高等学校演劇研究大会 4

  『螢』 作、竹内 透  潤色、杉内浩幸  宮城県宮城広瀬高校
 
 宮城広瀬高校は今回の会場に近い場所にある。
 女性だけ8人の芝居(この部には男性も多いのだが)。長崎で被爆した旧家の母子が、長年この家に仕えた老女の天草の実家に身を寄せている。季節は夏(1年後)。納屋を借りて住んでいるのだが、このセットがリアルで重厚。板に塗装し、それを軍手で何度も擦って、磨き込んだ古さを出したという。
 下手に板戸(引き戸)、土間に流し台(もちろん水道などない)、尺高の座敷は4畳。板の間が少しあって上手袖に続いている。窓はない。背後は板壁で高いパネル。天井に近い方は壁になっていて汚しが入っている。ちゃぶ台、タンス(これだけは、引き出しが大きすぎるし引き手もなく、なんだか妙な作りだと思った)。下手にヨシ簀が立て掛けてあり、その前で外の場面が設定される。そこに連続して下手花道も多用。
 衣装は女医以外、皆もんぺに草履。つぎあてが少し不自然で、母のもんぺは脛が出ていて丈が短すぎる気もしたが、時代の雰囲気はよく出ていたと思う。

 右手に火傷して指が癒着してしまった次女(包帯を巻いている)は、気持ちが荒み、人の好意を素直に受け取れない。天草に疎開していて無事だった三女は元気に高等女学校に通っている。そんな娘たちを見守る母親(本当に母親の年代に見えた)。東京の伯父を頼って次女を高等師範学校に入れようかと考えたりする。
 一方、親身に世話している老女の嫁は必ずしも好意ばかりではない。毎朝次女に届ける牛乳をネコの餌にされて腹を立てている。自分の子どもはそれが飲みたくて、じっと皿の前に立っているのだと。それを母親の自分が叱り、叩いて去らせねばならないのだと。
 東京から長女がやってくる。それでも次女の心は慰められない。老女が冷やし嫁が切ってくれた西瓜を、ありがたくも思わない風である。
 この西瓜が本物で、実際の天草の西瓜を取り寄せたのだそうだ。東北大会でも本物の西瓜だったのが評判になった(うちも本物ののり巻きを食べたのだが、これは全然話題にならなかった)。食べている場面で、ちょっと台詞が言いにくそうな所もあった。消え物を食べる場合、少し芝居のタイミングがずれると口の中に残っていて大変である(経験談)。
 生きる意味を見失った次女は包丁で自殺しようとする。それを嫁が腕力で止める。ここは身分を越える人間的な心情を見せた。
 そうこうするうちに三女が突然高熱を発して倒れる。最近口から出血したともいう。実は原爆投下の直後、家族を探しに行くというので長崎に入ったというのだ。残留放射能による二次被曝である。女医は原爆症と診断。老女は三女を長崎に連れて行った自分を責める。病院に移さねばならず、戸板にのせて運ぼうとする。戸板に寝かせられた三女の目に、きれいな螢が映る(窓はないのだが、皆三女の見る方〔正面〕を向く)。幕。
 音楽は荘重な宗教音楽が用いられていた。登場人物たちがクリスチャンの設定であり、キリスト教徒受難の地長崎の設定にも合っている。
 演技はやや硬い感じがしないでもなかったが、十分に引き込まれた。登場人物たちの苦悩が観る者の心に沁みてくる。
 
 妙なたとえだが、『ちいさいタネ』が漫画「はだしのゲン」だとすれば、『螢』は小説「黒い雨」ではないか。そんな風なスタイルの違いを感じた。どちらが良い悪いではなく。
 
 かつて『トミーが三歳になった日』で、ユダヤ強制収容所に育った男を描いた宮城広瀬高校。長崎の被爆者を扱っても、その苦悩の描写に全力を傾注していた。その真摯な向き合い方には好感を持った。